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生後十ヶ月の母|村山由佳 第32話

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 令和元年五月一日、水曜日。
 元号の改まった最初の日を言祝(ことほ)ぐかのように、素晴らしい青空が広がっている。四月の半ば過ぎまでは急にドカ雪が降ることもある土地柄なので、窓からの風は少し冷たいけれど、地面は勢いのある新しい緑でみっしりとおおわれ、いつのまにかタンポポやスミレが咲き競っていた。
 動物病院の院長先生と娘のミホちゃん先生が我が家に到着したのは、午前十一時頃だったろうか。
 寝室に入り、しましまのクッションに横たわる〈お絹(きぬ)〉を目にしたとたん、先生は言った。
「……まあ! この場所なんですね」
 そう、先生がたにとってもここは思い出深い場所なのだ。いよいよ最期の迫った〈もみじ〉ができるだけ苦しくないように手を施して下さったのも、そして私たち二人だけに見守られて息を引き取った彼女の身体(からだ)を、夜もう一度来てきちんと綺麗(きれい)に整えて下さったのも、みんなこの場所だった。
「もみちゃん、そこで見守ってくれてるのね」
 チェストの上の写真に挨拶して下さるお二方(ふたかた)に、もみじのほうも心なしか、へへん、と得意げに見える。
 あの時のようにかがみ込み、お絹の様子をていねいに診て下さった院長先生──もみじに倣って〈インチョ先生〉と呼ぶべきか──は、ひとつ嘆息して言った。
「こんなに小さい身体で、よくまあ……」
 やっぱりそうですよねえと思った。
 他の大人猫と比べて体格が小さめ、とかいうのではない。お絹自身がまだまだ子どもなのだ。
 猫の妊娠期間は約二ヶ月。広々とした田舎で自由に育ったお絹の場合、通常六ヶ月齢ごろから訪れる最初の発情で妊娠したと仮定するなら、極端な話、今ようやく生後八ヶ月だったとしてもおかしくない。顔つきや体つきから想像するに、せいぜい十ヶ月といったところだろうか。
 生まれてくる子猫も、きっと小さいんだろう。無事に育ってくれるといい。それより何より、無事に生まれてきますようにと祈る。
 もみじたち四姉妹を産んだ当時の〈真珠しんじゅ〉はちょうど一歳になったばかりだったけれど、お産そのものはびっくりするくらい簡単だった。陣痛の間こそ私に命じてお腹(なか)をさすらせていたものの、いざ産み出したら十五分おきに一匹ずつ、きっかり一時間で四匹を産み落とし、けろりとお母さんの顔になっていた。

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 猫は基本的に安産。──そういうアタマがあったものだから、お絹が我が家にやってきてすぐ病院へ連れていって診て頂いた時はぎょっとした。
 あの日、インチョ先生は、私たちを前にしてこう訊(き)いたのだ。
〈お宅に鉗子(かんし)はありますか?〉
〈ありません〉
 背の君が即答した。
〈普通ないやろ、それ〉
 鉗子。小さなハサミのような形をした、でも切るのじゃなくキュッと挟んで固定するための手術用具である。彼の言うとおりだ。普通、ない。
〈そうですか〉
 インチョ先生はまるきり動じずに言った。
〈じゃ、これをお貸ししておきますから、急なお産の時に使って下さい。一匹目の子猫が生まれてきたら、次の子が出てくる前に、ヘソの緒をこの鉗子で挟んでおいて、子猫側を糸で縛ってからハサミで切り離してですね……〉
 いやいやいやいや、と私はびびりながら思った。大丈夫だと思いますよ先生、そこまでしなくたって、子猫なんてみんな勝手に生まれてきますもの。
 でもまあ何があるかはわからないし、万一の時のためにということで、その日は鉗子とハサミと専用の糸と薄い手術用のゴム手袋を、どきどきしながら預かって帰ってきたのだった。
「これ、とりあえずお返ししときますんで」
 と、背の君が一式を持ってくる。
 そりゃそうだ。せっかくこうしてプロフェッショナルがいて下さるのに、へっぽこド素人(しろうと)の私たちが持っていることはない。
「とりあえずまあ、二階でコーヒー淹(い)れて、ゆっくりしてもらい。ここは俺ら見とくし」
 というわけで、相変わらずゴキゲンなお絹を背の君とその娘夫婦に任せ、私はインチョ先生とミホちゃん先生を二階へ案内した。ぞろぞろと後をついてきた〈銀次(ぎんじ)〉も〈青磁(せいじ)〉も〈サスケ〉も〈楓(かえで)〉も、みんな何度かずつ先生がたのお世話になっている。
 一階に比べると、天窓のある二階のダイニングはぐんと明るい。ああ見えていろいろと面倒見のいい背の君のおかげで、たくさんの観葉植物も青々としている。
「なんて気持ちいいんでしょう。ベランダへ出てみてもいいですか?」
「もちろん、どうぞどうぞ」
 などと言いながら、やかんを火にかけ、豆を挽(ひ)き、ハンドドリップでコーヒーを淹れたりしていると、ものの十分もしないうちに娘のチーちゃんが階段をばたばたと中程まで上がってきた。
「由佳ちゃん、あのなー」と、こちらへ向かって呼ばわる。「おとーさんがなー」
「うん、どしたー?」
「『汁と実ぃ出てる、って言うてこい』ってー」
 まだ口をつけてもいないコーヒーのカップを手に、先生がたと顔を見合わせる。
(汁と、実……?)
 次の瞬間、全員が階段を駆け下りていた。

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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710

村山由佳さんの猫三部作を書店で見る

※この記事は、2020年5月8日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

※集英社の「青春と読書」誌上で、姜尚中さんとの猫対談が行われました。


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