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雨と神様の物語|千早茜「こりずに わるい食べもの」第22話
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雨と神様の物語|千早茜「こりずに わるい食べもの」第22話

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 雨の日はココアとビスケット。
 いつの間にか、そうなっていた。私は気圧の変化に弱いので、雨の日はひたすら眠い。ぼんやりと目覚めて雨音が聞こえたら、ああ今日はもう駄目だ使い物にならない、と観念する。でも、どこかわくわくしている。雨のおかげで、どこにも出かけず一日中家で過ごしていい免罪符を得たような気分になり、銀行や買い物といったちょっとした用事ならすっぽかしてしまう。さあ、家にいようとココアとビスケットを用意する。
 
 ビスケットとココアパウダーは常備している。牛乳は苦手だけれど、雨予報がある週は買い置きしてある。ミルクティーやココアは好きなのだ。ミルクパンをだしてココアパウダーと砂糖を入れる。弱火にかけて、練って、練って、焦げる一歩手前で牛乳をそそぐ。じゅうう、と焼けたチョコレートケーキのような匂いの煙がたち、すこしずつ牛乳を足しながらぐるぐるとかき混ぜる。沸騰する前に火をとめて、大きめのカップにそそぐ。とろりとしていたら成功。濃く、甘く作るのが好きだ。
 
 数年前までビスケットはずっと森永製菓の「マリー」だった。バターが香るクッキーもほろりと崩れるパイも好きだが、薄くて甘すぎないシンプルなビスケットがココアには一番合う。ココアの表面に張った茶色い膜をビスケットですくい取る。
 何年か前に、岐阜の「ともだちビスケット」に出会ってすっかりはまってしまった。やはり薄くてシンプルなのだが、こちらは全粒粉なので、ざりざりした食感も加わり楽しい。雨に切り取られたぽっかり空いた時間で、ココアをお代わりして、ビスケットをぼすぼすとかじる。そして、小さい頃に好きだった絵本や何度も読み返している本のページをめくる。
 
 思えば、生まれて初めてのお茶会は紅茶ではなくココアだった。アフリカに住んでいた幼い頃、よく遊んでくれた少し年上の女の子がいた。日本人で、私と同じく父親の仕事の関係でアフリカに来た子だった。私が住んでいたザンビアは元イギリス領だったのでイギリスの文化が残っており、アフタヌーンティーといったお茶会文化の存在を子供なりにうっすら知っていて憧れを抱いていた。大人たちが集まってお酒を飲んでいた夜、少し年上の女の子はませた口調で「お茶会をしようよ」と言って、人形用の小さなティーカップセットをだしてくれた。台所からそろそろと運んできたポットの中にはココアが入っていて、私たちは茶色く甘い液体を小さなカップに注いでちびりちびりと飲んだ。ココアはぬるかったけれど、特別な感じがした。
 
 その思い出のせいか、ココアは特別な飲み物だった。ココアを作ってもらえると嬉しかった。日本に帰ってからは、さっと牛乳に溶けるミロがあったので自由に飲めたけれど、チョコレート好きの私にとってミロは「ココアみたいな飲み物」であってココアではなかった。牛乳の気配が消えないのもちょっと嫌だった。中学生になり、自分で菓子を作るようになると、製菓材料のココアパウダーに砂糖を入れて好きな甘さや濃さでココアを作ればいいのだと気づいた。その頃からココアパウダーは「バンホーテン」のピュアココアを愛用している。
 中学、高校と学校が嫌いだった私は、雨が降るとあれこれ体調不良を訴えてなんとか学校を休もうとした。ただでさえ行きたくないのに、雨の中、蒸れたぎゅうぎゅうのバスを使って通学するなんて耐えられなかった。仮病がうまくいくと、雨音の中、心ゆくまで眠り、起きたら小鍋でココアを作った。時間をかけて練るとうまい、と知ったのもその頃だ。家には「マリー」のビスケットがいつもあった。素朴な菓子を好む父の趣味だったのだろう。ビスケットを数枚失敬し、理想的なココアを抱えながら好きな本を読んだ。ココアとビスケットはズル休みの味になった。学校に行かなくてよくなった今でも雨が降るとココアとビスケットを求めてしまう。
 
 一度、雨でもないのにビスケットとココアを欲したことがあった。ちょうど一年前、大好きな小説家Oさんの講演会に行ったときのことだ。面識のある方だったが、あくまで観客として話を聞きにいったので、楽屋にもお邪魔せず手土産のクッキー缶を渡して帰った。帰り道、住宅街で道に迷ってしまった。ふらふらさまよい、いよいよ本格的に困りだしたとき、十字路でばったりOさんに会った。人間はあまりに驚くと声もだせないものだ。片手に私の差しあげた菓子の袋を下げたOさんは、石になった私に「あら、千早さん」と微笑み、私が迷っていることを見抜いたのか「駅までご一緒しましょう」とさらりと言った。
 
 十代の頃から神様のように思っていた小説家だった。正しくは、彼女の文章のはしばしにひっそりと神様がいた。美しいと思った。雲間から淡い光が差すような密やかな美に、不安定な頃の私は救われていた。この世界があれば生きていける、と感じさせてくれるものに出会えることは人生の恩寵のひとつだと思う。
 けれど、その想いを伝えることもできず私は降ってわいた僥倖ぎようこうにただただあわあわとうろたえていた。会話の途中でおすすめのパフェ屋を訊かれ、そのことくらいしかきちんと答えられなかった気がする。駅でお礼を言って別れ、しばらく清潔な後ろ姿を眺めていた。
 
 家に帰ると小鍋をだした。ココアを練ってビスケットの袋をあけた。学校をズル休みしてひらく本はOさんの小説が多かった。その彼女に道案内をしてもらった。非現実的すぎて自分の人生に起こったことだと思えない。けれど、素朴なビスケットをココアに浸し、ぼすぼすと齧っていると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。
 雨はここではないどこかへ連れていってくれるものだった。そして、物語も。現実であって現実でない場所が昔から私には必要で、ココアとビスケットはその旅に最適な食べものなのだろう。

illustration 北澤平祐

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連載【こりずに わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞を受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞を受賞。著書に『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』『男ともだち』『西洋菓子店プティ・フール』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『さんかく』『ひきなみ』などがある。
Twitter:@chihacenti

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