第七話 滝本&ザ・シティ 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」
老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊
1
テストステロンを高めるため、俺は街で女に声をかけることにした。
駅の改札を出た俺は、Wikipediaで渋谷の項目に目を通した。
「なになに。渋谷は若者の街として知られ『西武百貨店』『渋谷パルコ』『109』などのデパート・専門店・飲食店などが立ち並ぶ……」
俺はスマホのブラウザを閉じた。
しょせん文字情報などは『今ここ』から俺の気をそらさせるノイズでしかない。そもそも帰りの交通費ぐらいしか持ってない俺にはデパート情報など不要だ。
俺は曇りなき眼によって路上のリアルを見つめるべく、スマホから顔を上げた。
ハチ公像がある駅前と世界的に有名なスクランブル交差点を、多様な人種が寄せては返す波のように行き交っている。凄まじい人の量だ。
「…………」
俺の脳の処理能力を遥かに超えるこの多様性を見ていると、頭がくらくらしてきた。
あの昭和の単一な時代が懐かしく思い出されてならない。
昔、実家の町で異国語を話すのは、ハワイから来たマイケル先生くらいしかいなかった。あのころ、世界は今よりもずっとシンプルだった。
「いい時代だったよな。飛行機の中でタバコも吸えたしな」
だが今はそんな懐古をしている場合ではない。フリーコミュニケーションワークに集中しなければ。俺は目を閉じて雑踏の中で智拳印を結んだ。
そのときだった。
『そもそもなんなのよ、フリーコミュニケーションワークって』
レイからメッセージが送られてきた。俺はハチ公前で外国人観光客の群れに揉まれながら、スマホを操作してレイに返信した。
『説明してやろう。フリーコミュニケーションワークとは、他者との自由な交流の試みの中で、自己を成長させる内的ワークのことだ』
『つまりナンパのことよね。なんだかんだ言って滝本さんもそういう野蛮な欲望を持った一個の雄だったってことね。ふふ、いいのよ。恥ずかしがらなくても』
『違う! フリーコミュニケーションワークはコンプライアンスにも配慮した人間成長のための洗練されたワークなんだ! ナンパと違って、しつこくしないし、完全に暇そうな人にだけ声をかけるという鉄のルールがあるんだ!』
巷のナンパ本などには、『無視されてからが本当のナンパのスタート』『女に迷惑をかけることこそが善』『機械のように押して押して押しまくれ』などと書いてある気がする。
だが俺の提唱するフリーコミュニケーションワークでは、一瞬でも迷惑そうな雰囲気を対象から感じたら、すみやかにその場から離れるという不文律がある。
実際にやってみよう。
俺はハチ公前で智拳印を結んでコンセントレーションを高めると、眼の前を遅い足取りで歩いている暇そうな女性に声をかけた。
「あのー、すみません」
女性は俺の頭から足元まで一瞥すると、不快げに顔をしかめて歩き去っていった。
「…………」
俺はうつむいてその場を去ると、アパートに帰って布団を被って寝た。
2
ずーん、という重苦しい気持ちから回復したのは一週間後のことだった。
その日の書道を終えた俺は、メルカリで購入した一張羅を羽織った。
「よし……そろそろまたフリーコミュニケーションワークに出てくるぞ」
ソファに座るレイは、古いiMacのキーボードから顔を上げてこちらを見た。
「もうよしなさいよ。また寝込むのがオチよ」
「な、なあに、かえって免疫が付く」
「声が震えてるわよ」
他者からの冷たい視線を浴びて寝込んでしまったが、フリーコミュニケーションワークにおいては、人から無視されたり、ネガティブな態度や言葉を受けたりすることは最初から織り込み済みの事態なのだ。
「そう……大人の男は社会で地位を得るほどに、ちっぽけなプライドや体面を大切にしてしまう。そういう守りの姿勢は人を腐らせる。守りを捨てて街に出て、自分の殻を破るんだ!」
「滝本さんには守るべき地位もプライドも最初から何もないでしょ」
「うるさいな! とにかく今日俺は渋谷で沢山の女に声をかけるって決めたんだ! 人生に革命を起こすんだ!」
「ま、待ってよ、滝本さん!」
レイを無視してアパートを出て渋谷に向かう。
*
一週間ぶりの渋谷に到着した俺は、再度、魅力的な女性に声をかけようとした。
よし。
ターゲット確認。
あの暇そうな女に声をかけてやる。
駅前をうろつく俺は、獲物を狩る野獣の目を女に向けた。
「…………」
だがどうしても体が言うことを聞かない。
自分と何の関係もない人間に脈絡なく声をかける。そんな異常行動を取ることを、俺の心と体のすべてが嫌がっている。
どうやら前回のフリーコミュニケーションワークで負った心の傷が、まだ癒えていないようだ。
だとしても今動かなきゃ、なんにもならないんだ。
「動け、動け! 絶対に今日は百人の女に声をかけるんだ!」
俺は自らの震える太ももをばんばんと手で叩いた。
そのときだった。
レイから以下のテキストが俺のスマホに送られてきた。
レイちゃんの知恵袋 その7
『直感を大事にする』
滝本さん! 渋谷でのナンパはうまくいってますか?
どうせ滝本さんのことですから、無理なノルマのせいで自縄自縛に陥っているんじゃないですか?
自意識過剰になって動けないまま、ただ時間だけが虚しく過ぎているんじゃないですか?
そんなときは一旦、自分で決めたノルマや目標をぜんぶ忘れて、直感に従ってください!
人間は機械じゃないんです。
この世界も、自分自身も、頭で決めた計画通りに動くようなものじゃないんです。
もっと力を抜いて、ふわっと生きてみるのもいいんじゃないでしょうか?
リラックスして、頭を空っぽにして、そのときどき、ふっと心に浮かんだことを気軽にやってみてください。
そうすれば、きっといい流れに乗れますよ!
3
直感に身を任せれば、何かいいことが起こる。
そんなレイの言葉を信じたわけではない。
だが、女に声をかけようとしても、どうしても体が動かない。それは事実だ。
このままでは石化したように身動きが取れぬまま夜になるのは目に見えている。
「仕方ない。とりあえず腹が減ったから何か食ってみるか。たまには小説の仕事も進めたいしな」
俺は近くのカフェに入ると、一番安いパンを買って、窓際のカウンター席に座り、無料の水でパンを流し込んだ。
ついでにスマホのバッテリーを充電するため、充電器を鞄から出した。
そのとき、隣に座る女性がこちらを見た。
ビジネススーツに身を包んだ彼女は、丸の内のビルの隙間をさっそうと闊歩していそうな雰囲気を醸し出していた。
「あの……」
「ん?」
「すみませんが、一瞬だけ充電器を貸してもらえませんか?」
「ああ、どうぞ」
俺は自慢のAnkerの高速充電器とケーブルをビジネススーツの女に渡した。
彼女は電池切れのスマホを充電して再起動し、LINEで何かのメッセージを送ると、俺に笑顔を向けた。
「助かりました。今日に限って充電器を忘れていたんです」
「なるほど。そういうことならもうちょっと充電していったらどうですか?」
俺の申し出を受けてビジネススーツの女性は充電を続けた。
その間、彼女はバッグから、アナログの目覚まし時計のようなものとノートパソコンを取り出して仕事を始めた。
「…………」
俺も鞄からMacBook Airを取り出し、小説を書き進めようとした。
だが、なかなか集中できない。
「うう……」
早々に執筆を諦めた俺は、隣の席のビジネススーツの女に目を向けた。
彼女は一心不乱にキーボードを叩き続けている。
どこからそんな集中力が湧いてくるのか?
もしかしたら彼女が作業前にカウンターに置いてセットした、目覚まし時計のごときガジェットに秘密が隠されているのか?
「これはタイムタイマーっていうんですよ」
俺の視線に気づいた彼女はキーボードを叩く手を停めると、そのガジェットを渡してきた。
「これはADHDの子供の学習によく使われるタイマーなんですが、残り時間が視認しやすくて、大人の仕事にも便利なんです」
「なるほど」
「ちなみに私はこのタイムタイマーで、ポモドーロ・テクニックというものを使って仕事しているんですよ」
「ポモドーロ・テクニック。聞いたことあるな……二十五分間仕事をして、五分休むのを繰り返すという仕事術だったか」
「それです。一緒にやってみます?」
俺がうなずくと、女はカウンターにまたタイムタイマーを置いて二十五分にセットすると、猛然とキーボードを叩き始めた。
俺もタイムタイマーの針の進みに押され、気づけば隣の女性に負けじとばかりのスピードでキーボードを叩き、小説本文を高速でエディタに打ち込んでいた。
「ほら、あっという間だったでしょ?」
「し、信じられない。もう二十五分経ったというのか……すごいアイテムですね。このタイムタイマーというものは」
「あげます」
「えっ?」
「私、明日からイギリスに出張で。荷物は減らしたいので、よかったら記念にあげますよ」
「い、いいんですか?」
女性はApple Watchに目をやるとカウンターから立ち上がり、バッグを肩にかけた。
「これから打ち合わせなのでもう行きますね。充電器、ありがとうございました」
タイムタイマーを受け取った俺は、香水のかすかな残り香に包まれながら、その後ろ姿を見送った。
4
タイムタイマーをいじりながらカフェを出ると、何者かに声をかけられた。
「ちょっとー、聞きたいんですがー」
顔を上げて見ると、俺の目の前に立っていたのは金髪碧眼の美女だった。
「な、な、なんですか?」
「このビルわかりますか?」
金髪碧眼の美女はスマホの地図を俺に向けた。
「あ、ああ……道案内ね。どれどれ」
俺はスマホを覗き込んだ。
「あっちの方か。案内しますよ」
俺はタイムタイマーをポケットにしまうと、その金髪碧眼の美女を目的のビルに導こうとした。
数分渋谷を歩きふと隣を見ると、美女の後ろに、小学校低学年ぐらいの少年が隠れていることに気づいた。
俺の視線に気づいた美女は歩きながら言った。
「こちら私の息子。一緒に社長さんとの食事会に行く」
「なるほど……日本は長いんですか?」
「二年ぐらい」
「どこから来たんですか?」
彼女は最近よくニュースで名前を聞く北方の国の名前を出しながら、少し気まずそうな顔を見せた。
俺は話題がポリティカルな方面に流れないよう気を遣い、彼女の母国で使われる文字に難癖をつけた。
「キリル文字って読みにくくないですか? 特に筆記体だといたずら書きにしか見えない」
「そんなことない。日本の漢字の方がダメ。数が多すぎる」
「うーん。それは確かに。俺は書道をやっているんですが、とても難しい」
「書道はこの子も学校でやった。ね?」
母に促され、金髪碧眼の少年は俺を見上げた。
天使のごとくかわいい少年が、ゴミゴミした狭い路地の中、澄んだ瞳を俺に向けている。
その美に威圧された俺は、思わず大人が子供に問いかけがちなどうでもいい問を発した。
「学校で、なんて字を書いたのかな?」
「友達」
「いい言葉だな。友達、か」
その言葉を口の中で繰り返していると、目的のビルが目の前に現れた。
少年が俺に手を振った。
俺も手を振り返してから駅前に戻った。
スクランブル交差点近くのベンチに腰を下ろす。
「はあ……友達か。俺は一人で何をやってるんだろうなあ」
思わずそんな声が漏れる。
街は暗くなってきて、少し肌寒くなってきた。
そろそろ帰るか。
俺はベンチから腰を浮かせた。
そのとき、すぐ近くから何者かの嗚咽が響いてきた。
「うう……ひぐっ、ぐすっ」
声の方向を見ると、ベンチのすぐ隣に日本人の若い女が座っており、彼女は肩を震わせて涙を流していた。
何か陰惨な事件にでも巻き込まれたのだろうか。
まあ俺には関係ないことである。
「…………」
俺は隣から聞こえてくる泣き声を無視し、Twitterのタイムラインをチェックした。
しかしいつまでも嗚咽が響き続けた。それは止まるどころか刻一刻と悲しげな響きを高めつつあった。
それでも彼女の泣き声を無視しようとした俺の脳裏に、電撃文庫の小説『ブギーポップは笑わない』の一節がよぎった。
『君たちは、泣いている人を見ても何とも思わないのかね!』
「…………」
『あきれたものだ。これが文明社会ってわけか!』
仕方ない。
俺は泣いている女に声をかけた。
「あの」
「ひぐっ、ううっ」
「だ、大丈夫ですか?」
「うああああああ!」
俺が話しかけたことで女性の中の何かが決壊したらしい。泣き声がさらに大きくなった。
道行く人々が俺に視線を向ける。
これではまるで俺が彼女を泣かせているようだ。
早く彼女の涙を止めなければ。
俺は涙の原因を探った。
「どこかが痛い? お腹?」
「う、うう! ひぐっ!」
彼女は嗚咽をより大きくしながらぶんぶんと首を振った。
「痛くないということは……何か悲しいことがあった?」
「うぐっ、ひぐ!」
彼女は嗚咽しながらうなずいた。
「もしかして何か犯罪の被害にあった?」
この答えいかんではお巡りさんのところに連れていく必要に迫られる。
だがありがたいことに、彼女は首を横に振った。
「ううっ、ううう……」
どうやら犯罪に巻き込まれたわけではないらしい。
それならとにかく、彼女の気持ちをなだめて涙を止めればミッションコンプリートだ。
「…………」
俺は彼女の背中に慎重に触れた。
嫌がる様子を見せなかったので、俺は彼女の背を手のひらで軽く叩いた。
すると、少しずつ彼女の嗚咽は小さくなっていった。
仕上げに、俺はいまだ小声で泣き続ける彼女を、近くのドーナツ屋に連れていった。
砂糖でコーティングされたドーナツと温かい飲み物を提供すると、ついに彼女は完璧に泣き止んだ。
帰りの交通費ギリギリまで財布の中身が減ったが、その甲斐あって人間らしい言語によるコミュニケーションが取れるようになってきた。
俺は彼女から聞き取ったことをまとめた。
「つまり……サークルの飲み会に遅刻したら、先輩と友達に人間性を否定されたってことか? それであんなに泣いてたのか?」
「『いつも遅刻するお前は何やってもダメだ。性根が腐ってる』って言われて……う、うううう! そんなことないのに!」
想像よりも遥かにどうでもいいことで泣いていたらしい。
「友達は大事だぞ。大切にしろよ」
俺はまた涙を流し始めた彼女をなだめながら駅まで送り届け、改札に押し込んだ。
「はあ……世の中にはいろんな奴がいるもんだな」
ため息をつきつつ、またもとのベンチに戻って腰を下ろした。
「少し休んだら家に帰るか」
俺はポケットからタイムタイマーを取り出して、目盛りを五分に合わせた。
そのときコスプレ風の衣服に身を包んだ少女が俺の隣に座った。
5
かわいいファッションのその少女は、暇そうなオーラを発しながらスクランブル交差点をぼうっと眺めていた。
「…………」
タイムタイマーがポケットの中で電子音を発した。
五分間、隣の少女はスマホもいじらず、スクランブル交差点の人と光の流れを眺め続けていたのだ。
俺は再度、タイムタイマーで五分の時間を計測した。
しかしやはり隣の少女は暇そうにベンチに座って、たまにぶらぶらと足を揺らしているばかりだった。
タイムタイマーは俺に何かの行動を促すかのように、ポケットの中で電子音を発した。
「…………」
『暇そうな少女を見ても何とも思わないのかね! これが文明社会ってわけか!』
そんなブギーポップの実際には存在しないセリフまでもが俺の脳裏に瞬いた。
その幻の言葉に背中を押された俺は、気がつけば隣に向かって声をかけていた。
「あの」
瞬間、目を丸くしてこちらを見た女は、カタコトの日本語を発した。
「私、日本語わからない。わからない!」
俺はとっさに使用言語を日本語から英語に切り替えて聞いた。
「君は英語を話せるか?」
「英語……それなら少し話せる」
「どこから来たんだ?」
彼女は東アジアの国名を答えた。
「ああ、俺は好きだぜ、君の国のご飯。一度、ビジネスで行ったことがあるんだ」
「私は日本の方が好き。私の国、私は嫌い」
かわいいファッションの少女は、流れていく渋谷の人と光を見つめながら、スカートから伸びた白い太ももの上でぐっと拳を握った。
「日本のどこが好きなんだ?」
「いいところが沢山ある」
「たとえば?」
「寿命が世界で一番長い。それに雰囲気も良い。私の国、あまり私は馴染めない」
話がポリティカルな方向に流れるのを懸念した俺は、自分が話したいことを話すことにした。
「確かに日本人の寿命は長い。そのうえ俺は、自分の寿命をもっと延ばして、永遠に生きようとしているんだ」
少女は笑った。
「リブ・フォーエバー。昔の歌。好きなの?」
「ああ。君はもし永遠に生きられたら何したい?」
「わからない。勉強したい」
「俺は旅したい。だからずっと英語を勉強してきたんだ。家の中で、一人でな。誰かと英語で喋るのは今このときが初めてだ」
だから意味が通じているのかどうかはわからない。
この会話が成立しているのかどうかはわからない。
歳も性別も国籍も違う人と、こんな都会の中で話ができているなんて奇跡のように思われてならない。
凄いことだ。
人は誰もが全員、違う人間だというのに。それがこんなにも大勢、街の中で触れ合い、離れ、また触れ合いながら歩いている。
ここで俺はいつまでも生きていたい。
そして多くの人と話したい。
君のような人と、何度も、何度も、繰り返し。
できることなら、いつまでも。
「…………」
そんなことをたどたどしく、壊れた英語で口に出していると、彼女のホテルの話題になった。
半年分のバイト代を放出しただけあって、そのホテルは清らかで、窓からは夜景が光の粒のようにきらめいて見えるという。
俺は何気なく言った。
「俺もその景色、見てみたい」
「ダメ! ダメダメダメ。ダメ!」
少女はジェスチャーと共に強く拒否した。
何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
しばらく考えて、俺は理解した。
「す、すまん。人が泊まってる部屋を見てみたいだなんて、ちょっと変だったな」
「…………」
異国から来た少女は、細い太ももの上で拳を握ったり開いたりした。
気まずくなった俺は、自分の得意分野の話題に頼ることにした。
「そうだ。君はアニメを観るか?」
「アニメ? 私は詳しい」
「いいや、俺の方が詳しい。俺は専門家と言っても過言ではない」
「ふん。私は学校でアニメを研究している。八〇年代であればガルフォースが好き。九〇年代であれば獣兵衛忍風帖が好き。わかる?」
「も、もちろん。ガルフォースはSFだ。獣兵衛は忍者の話だ。そうだろう」
「観たことある?」
「……ない。どうやら、確かに君の方がアニメに詳しいようだ」
俺が負けを認めると少女は得意そうに日本アニメの歴史の流れを早口で滔々と語り出した。
難しい英単語が頻出し、リスニングが追いつかない。
俺は彼女のトークに割り込んだ。
「アニメは語るより観るものだろ」
「観たいの? 私と」
「ああ。だが……」
俺はApple Watchを確認した。
「そろそろ終電の時間が近いな」
「終電?」
「これを逃すと俺はアパートに帰ることができない。だから俺はそろそろ帰る必要がある……」
『君のホテルでNetflixを一緒に観よう』というセリフが喉まで出かかっていた。
俺はそれをコンプライアンス上の観点から強引に抑え込むと、ベンチから立ち上がって彼女から一歩、遠ざかった。
「日本旅行、楽しんでくれ」
「……バイバイ」
旅行者は一瞬、俺に手を振ると目をそらした。
俺は駅に向かった。
改札を通り抜けようとする。
瞬間、俺は足を停め、振り返ると、流れ込んでくる人の波に逆らってさきほどのベンチに駆け戻った。
人混みをかき分けてたどり着くと、ベンチには、もう誰も座っていなかった。
「…………」
その場でぐるりと見回して、さきほどまで交流していた人を捜したが、夜の街のどこにもその姿は見えなかった。
基本、この世界は豊かであり、少し行動を起こすだけで、抱えきれないほどの良いことをもたらしてくれるのだった。
だとしても俺はいつもそれを受け止めることができない。
かわいいファッションの少女も、金髪碧眼の母子も、ビジネススーツの女も、すでに俺の世界から消えてしまっていた。
「やっぱり俺はアパートで習字してる生活がお似合いなのかもしれないな……」
今日一日のフリーコミュニケーションワークでわかったこととしては、俺には恋愛はまだ早いということである。
いやそれ以前に、他人とのコミュニケーションそのものが、俺には早すぎるコンテンツなのかもしれない。
「…………」
そうだ。
一つ一つそのどれもが大切な人との縁、それを作るチャンスをすべて無駄にドブに捨てていくこの俺は、もうこの街から消えるべきだ。一刻も早く。
「…………」
俺はまた駅に戻り、改札にSuicaを当てた。
ピッと音が鳴るのと同時に、誰かが背後から声をかけてきた。
*
「あの! 滝本さんですよね!」
「え?」
振り返るとジャージを着た大学生ぐらいの女が立っていた。
「私、青山です! 覚えてますか?」
「ど、どちらの青山さん?」
「ほら、バイトしたじゃないですか! 一緒に!」
俺の脳裏にもやもやと、どこかの倉庫でケーブルのまとめ方のレクチャーをする女の姿が浮かんだ。
「ああ、あの青山さんね。どうもどうも」
俺はビジネスパーソンらしく会釈しながら改札ゲートを通り抜けようとした。
「待ってください」
「うっ」
服の裾を引っ張られて、ゲートの通過を阻止される。
「あの倉庫でお会いして以来ずっと、滝本さんに言いたいことがあって」
「あの、終電があるので。ていうかなんで俺の名を」
俺は再度、Apple Watchをチェックした。この終電を逃すと運賃が足りず本当に帰宅できなくなってしまう。
「あの日、私、倉庫から走って家に帰りながら、ずっと考えていたんです。滝本さんが私に告げた言葉のこと。超人のこと。すごいいいアイデアがいくつも閃きそうな気がしたんです」
「ほんとにあの、もう終電が」
「なのにいくら考えても何もわかりませんでした。だからまた会って話を聞きたくて名簿で名前を調べたんです。滝本さん! 私、なりたいんです。超人に」
「ごめん、ほんとに!」
俺は青山とやらの手を振りほどこうとした。だがその手は強い力で俺の服の裾を離さない。
「ああ……終電……」
「私の家、歩いていけるところにあるんです」
青山は俺を改札ゲートから完全に引き抜くと、深夜の街を道玄坂方面へと歩き出した。
(つづく)
連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新
滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt