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#9 『ひまわり』とクック・ロビン音頭 宇野常寛「ラーメンと瞑想」

※このエッセイは、小説的な内容を含みます。登場する人物と団体は、基本的に架空のもので実在のものとは関係ありません。ただし、取り上げているお店はどこもとても、とてもおいしいのでオススメです。
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design:Kawana  Jun


1.定食屋の幸福


  明治通り沿いの地下鉄西早稲田駅の近くに、「ひまわり」という定食屋がある。この表現は正確ではなくて、僕の記憶が確かならその店は地下鉄の西早稲田駅ができるずっと前からそこにあったはずだからだ。近くにタクシーの営業所がある関係で、ある時期まではかなり朝早くから開いていて、この付近の住民やこのあたりに勤めている人たちにずっと愛されている店だ。僕は高田馬場付近に暮らし始めてもう二十年近くになるけれど、この店の存在を知ったのは最近だった。いや、店の存在そのものは知っていた。単純にこのお店は明治通り沿いにあるので、よく目にしていたのだ。ただ、本当に「たまたま」入る機会がなかった。高田馬場付近は学生街でもあるために安くておいしい飲食店が多く、これは逆に家から少し離れた店や、いつも歩く駅への動線にない店には入らない理由になった。つまり、わざわざ出向かなくても、近くにある店で十分満足してしまうのだ。
 
 そんな僕がこの店に通い始めたのは、コロナ禍がきっかけだった。かのコロナ禍が強いた「新しい生活様式」は、結果的に半径五百メートルの世界への関心を高めた。少なくとも、僕にとってはそうだった。このとき僕は「駅をまたいだ移動」が忌避される風潮を、むしろ自分の足元を見つめ直す機会だと考えることにした。この間に、近所の公園や路地の植え込みに生えている植物や、そこに集まる虫や爬虫類に詳しくなった。一番驚いたのが、深夜に散歩をしながらTと話し込んでいるときに自宅の前でタヌキを目撃したことだ。目白や下落合の緑地にタヌキが生息しているのは知っていたが、目にしたのははじめてで、それも高田馬場の住宅街まで出張ってきていたことに衝撃を受けた。僕は長く住んでいるつもりでも、まだまだこの街のことを何も知らないのだと痛感した。
 
 特にこのタヌキを目撃した一件を通じて、僕は反省した。僕はもっと、まずは目の前の物事を、半径五百メートルを見る目を、歩く足を鍛えないといけない。半径五百メートルにある世界に鈍感な人間が、世界のどこに旅をしても、それは記号化されたものを受け取るだけの「観光」にしかならず、何も持ち帰ることができない。そう、考えたのだ。
 こうして、僕は調べ始めた。この街で僕が興味あることを、片っ端から調べ始めた。特に日々の移動で、散歩で、ランニングで偶然目にしたもの、そして少しでも気になったものについてはしっかり調べるようになった。その結果として、たどり着いたのがこの店だった。規模的に個人経営の店なのだろうけれど、ずっとそこにあるその店――「ひまわり」――についてある日ふと、僕は調べた。そしてそこが、西早稲田の人々に長く愛されている名店であることを、はじめて知ったのだ。
 
 はじめてこの店を訪れた日のことを、僕ははっきりと覚えている。その日は水曜日で、僕は例によってTとの「朝活」を終えたあと、彼を誘ってこの店に足を運んだ。小さな門構えとは裏腹に、店の中は案外広く、厨房では数名のスタッフがおそらくは昼時に備えて忙しく動いていた。
 まだ十時台だったせいか、店の席には僕たちの他に熟年男性がひとりいるだけだった。彼はきれいに食べ終わった定食の盆を前に瓶ビールを空けていた。たぶん、夜勤明けの食事だったのだと思う。
 僕とTは、テーブル上のメニューと店内の張り紙を見比べながら注文を吟味した。僕は定番メニューだという「なすみそメンチカツ定食」に生卵をつけた。Tは好物の「鰹タタキ定食」と瓶ビールを一本追加した。そして二人で相談して、この店の名物だというアジフライを注文した。アジフライは二枚セットで六百円で、二人で一枚ずつ食べればちょうどいいという話になったのだ。
 
 程なく運ばれてきた盆を、僕は生唾を飲んで見下ろした。
 盆の主役は千切りキャベツの上に鎮座した丸くて大きな、黄金色のメンチカツだ。その脇には寄り添うように、少し深い鉢にたっぷりの味噌ダレの中に浸かったナスが顔を出していた。両脇は具だくさんの味噌汁の椀と、大盛りのご飯茶碗が固めて、そこにはダメ押しでナムルと漬物の小鉢が添えられていた。
 僕はまずメンチカツをかじった。じゅわっと口の中に感触が広がって、ガツンとくるひき肉の旨味と衣の揚がった香ばしさ、そして肉汁と衣の油が入り混じったものが一度に飛び込んできた。これは素晴らしいメンチカツだと感動しながら、僕は千切りキャベツをかっこんで口の中を一旦リセットして、鉢の中のナスをつまみ上げた。たっぷり味噌ダレの染み込んだナスにたまらなくなって、僕はすぐに白米を口に放り込んだ。こんなにごはんが美味しくなる味噌ダレを、僕は知らないと思った。この時点で、僕はなんでもっと早くこの店に来なかったのだろう、と後悔していた。
 
 このとき僕はすでに満たされていた。しかし「ひまわり」という店は容赦がなかった。
「お待たせしました、アジフライです」
 ホール係の熟年女性が、慣れた手つきでアジフライの皿を二人分の盆で狭くなっていた僕たちのテーブルのわずかな隙間に載せていったのだ。
「ソースかけていいですか?」
 僕がうなずくと、Tは盛大に卓上のウスターソースを二枚が折り重なったアジフライにかけた。
 うち一枚を箸でつまむと、それはずっしり重くて、身が厚いのが伝わってきた。
 大口を開けて衣を噛むと、じゅわっと鯵の汁が染み出してきた。それが衣の油とウスターソースに合わさって生臭さを中和し、代わりに油の甘さとソースの甘酸っぱさを鯵の旨味に添えていた。完璧だ、と僕は思った。
「これはうまい。うまいですね」
 目を丸くしながらTも咀嚼し、フライの乗っていたキャベツの千切りを皿を持ち上げて貪っていた。
 僕は具のナスを食べ尽くしたあと、大量に残った味噌ダレを半分ほど残った白米に上からぶっかけた。そして追加で頼んでいた生卵を割って溶き、その上にさらにかけた。そして付け合わせの漬物をひとつまみ加えて、思いっきりがっついた。これは絶対うまい、という確信が僕にはあった。それは端的に言って至福の時間……だった。
 
 その日を境に、僕とTはこの「ひまわり」に頻繁に足を運ぶようになった。そして毎回僕はなすみそメンチカツ定食を、Tは鰹タタキ定食を注文した。アジフライやなすみそメンチカツと同じくらい店が「オススメ」として推している肉じゃが定食をはじめとして、サバの味噌煮定食やエビカツカレーなど、魅力的なメニューが他にもたくさんあったけれど結局僕たちはいつも同じメニューを注文して、そしてアジフライを追加で頼み一枚ずつシェアしていた。
 
 そしてその日もまた、僕たちはこの「ひまわり」に足を運び、なすみそメンチカツ定食と鰹タタキ定食を注文し、アジフライを追加して一枚ずつシェアしていた。そして一通り食べ終わり、一休みしたら瞑想して、その後コーヒーでも飲もうかというタイミングでその「議論」は発生したのだ。

2.パパは中二病

 食後のお茶をすすりながら、Tは切り出した。
「先日、子供の進路相談にのりました。彼女の通う高校は2年生から文系か、理系を選択するシステムになっています。彼女は理数系が得意なのですが、興味関心はどちらかといえば文系の方に傾いているそうです」
「Tさんはなんと答えたのですか?」
「あらゆる道は一つの道に通じている、と答えました。文系だろうが、理系だろうが、武道だろうが料理だろうが、神へ至る道としては等価だということを伝えたかったのです」
「お子さんはどのように反応されたんですか?」
「『パパはいつから中二病なの?』と言われました」
「……そうですか。それは悲しいですね」
 僕はそう答えながら、Tを擁護したいと思った。
「それはテレビバラエティ的な「笑い」の感性にもっとも現れているように思います。テレビバラエティ的な「笑い」は中心と周辺を設定し、周辺に配置された「イケてない」人間を貶めることで笑いを誘います。それは、特に何ももたず、ただ周囲に合わせることしかできない人々にとって、「救い」になります。しかしそのために出る杭を打つことが是とされ、社会から多様性は失われます。これは工業社会の要求する労働集約への適応でもあったはずです。かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた日本的経営は、このように「個」を放棄して共同体の中に埋没し、ネジや歯車のような労働者を量産することで高いパフォーマンスを発揮してきましたが、情報産業においてネジや歯車のような取り替え可能な労働者は価値を発揮しなくなる。これが日本の「失われた30年」の背景です。石橋貴明的なものや松本人志的なものに周辺に追いやられた個性が、しっかりと尊重される社会を再建することが僕は必要だと考えます。しかし未だに「飲みニケーション」を手放せないオーナーや管理職が象徴するように、脳にカビの生えた古い日本人たちは、他に生き方を知らないために、共同体の一部となることで安心し、少しでもその共同体でよい役を、中心に近づくことばかりを考えます。僕は彼らに軽蔑以上のものを感じません。そして、この国の学校教育は実質的に出る杭を打ち、子供たちに与えられた箱の中の空気を読み、なるべく共同体の中心に近づくことが正しい生き方だと教えてしまっています」
「たしかにこの国の世間には、残念ながら真正なものを語ることに対して、それを茶化す作法が染み付いています。もしかしたら僕の子供も、学校教育の中でその作法を身につけてしまったのかもしれません。ただ、この件については実は彼女がここで積極的に僕を茶化したいと考えていたわけではないことに、本当の問題はあると思います」
「どういうことですか?」
「彼女はおそらく、僕の述べた抽象的な話と、神の道の比喩にどう反応してよいかわからなかったのでしょう」
「……それはそうでしょうね」
「その結果として、消去法で選ばれたのが、パパはいつから中二病なのかと茶化すようなことを述べるという選択肢だったのだと思います」
「内容は理解できない、しかしコミュニケーションは成立させなければいけないと、相手を尊重しているからこそ考える。その結果として、もっとも効率的な選択して浮上するのが茶化すという行為だということですね」
「はい。そこにはまったく悪意はありません。しかしその結果として失われるものは少なくないはずです」
「コミュニケーションを成立させるために、内容を問わなくなる。それはテレビバラエティの「語り口」の陥った罠であり、そして糸井重里が対象を扱う「語り口」の洗練に重心を置いた結果として、物事の内実、特に「正しさ」に触れられなくなってしまっている問題でもあります。テレビ的なものと広告的なものに表出していることに象徴的ですが、これはこの国のポスト68年、つまり消費社会の陥った罠だと言えるはずです。そして、この国の社会は2020年代に入った今日においても、その罠の中にいるということなのでしょうね」
 僕はTの疑問に深く同意して、そして僕なりの観点から分析を述べたつもりだった。しかし、目の前のTはどこか不満気だった。
 僕がなぜだろう、と頭を捻っているとTは述べた。
「でも、宇野さんはギャグとか好きですよね? よく僕に「シェー」をしませんか、とか「クック・ロビン音頭」を踊りませんかとか、言うじゃないですか?」

3.誰が殺した? クック・ロビン

 たしかに僕はよく、会うと二回から三回に一回くらいの割合で、Tにこの種の提案をしていた。
 
 ことの発端は今からもう十年以上前、まだTが渡仏前だったころに遡る。ある日のTと美術館に足を運んだ帰りのことだ。車中でふと年齢の話になった。当時彼は三十代後半で、僕は思ったのだ。Tはなんというか、キャラクターが完成されすぎている。このまま四十代に突入したらもうあとには戻れなくなる。それは人生の可能性を大きく狭めるので、一度自己破壊をしたほうがいいのではないか。そう僕は考え、それをそのまま口にしたのだ。そして僕は具体的な提案として、こう付け加えたのだ。
「『シェー』とかしてみたらどうですか? あるいは『クック・ロビン音頭』を踊るとか。僕も一緒にやりますよ」
 あれからもう十年以上経つが、僕は今でもふと、この問題が頭をよぎるたびにTに「シェー」や「クック・ロビン音頭」をしてみることを提案している。しかしそれは決して彼をからかっているのではなく、僕なりに真剣にふざけることを提案しているのだ。
 そしてそのたびにTは反発していた。曰く、それは人間の尊厳を貶める行為である、と。その日も同じ流れが生まれつつあった。そこで、僕はこう言ったのだ。
「たしかに、石橋貴明や松本人志の「笑い」は誰かを貶めています。しかしイヤミの「シェー」は違います。あれは誰も貶めていません」
 念のために解説しておくが、「シェー」とは赤塚不二夫のマンガ『おそ松くん』に登場するイヤミというキャラクターが、驚いたときに取る大げさなジェスチャーで、雑誌連載時(60年代)に主に小学生男子の間で大流行したものだ。
「あれはフランス帰りという設定から考えても、西洋近代のディシプリンを内面化した近代人を西洋かぶれと揶揄したキャラクターなのではないですか?」
「当初はそうだったかもしれません。しかし『おそ松くん』が週刊漫画誌で連載されていくにつれて、その文脈は忘却されていったと思いませんか? 全国の小学生男子が、昼休みの教室や放課後の原っぱで「シェー」を連発したとき、そこにインテリ批判の文脈はなく、ただオーバーアクションで驚くことの楽しさだけがあったように思います」
「……この話まだ続けますか? あまり「シェー」について真剣に考えたくないんですが」
「『おそ松くん』はタイトルの中心にあるように、六つ子たち、つまり戦後中流を目指す量産型の日本人たちのメンタリティをもつ「同じ顔をした人々」がイヤミやチビ太やダヨーンのおじさんといった周辺の変人たちに触れることで笑いが起きる、という構造を持っていました。その意味では後のテレビバラエティのいじめ文化に通底する構造を内包していたと言えます。赤塚不二夫とタモリの関係を考えても、それは明らかです。しかし重要なのはむしろ、『おそ松くん』というマンガが社会現象化する中で、主役のはずの六つ子たちではなくむしろ笑われるために配置された周辺のキャラクターたち、イヤミやチビ太やダヨーンのおじさんやデカパンといったキャラクターたちに人気が集まっていたことです。今の天皇が少年時代に「シェー」をする写真が残っていますが、彼は満面の笑みでそのポーズを取っています。そこにはイヤミという規範から外れた、共同体の周辺のキャラクターを蔑むニュアンスは一切なく、むしろイヤミへのリスペクトすら感じられます」
「それはそうかもしれません。しかし宇野さんが度々僕を誘う「クック・ロビン音頭」はどうですか。僕はあの踊りには、僕の好きな『ポーの一族』を愚弄するものを感じます。エドガーやアランの生きる美しい世界が、穢されたような気分になります」
 対して「クック・ロビン音頭」は説明が難しい。これは魔夜峰央のマンガ『パタリロ!』で、主人公の少年パタリロが好む踊りだ。「誰が殺した/クック・ロビン」というマザーグースの歌謡の一節を、盆踊りのような振り付けで踊る。これは70年代を代表する少女マンガである萩尾望都の『ポーの一族』の作中で、このマザーグースの歌謡が引用されているシーンがあり、そのシーンに対するパロディだ。少年期の繊細な、疑似同性愛的感情を表現するために『ポーの一族』ではマザーグースの引用が行われているのだが、『パタリロ!』でパタリロはその「誰が殺した」と問いかける歌詞のもつ棘を、平和な音頭調の踊りに用いることで抜き去ってしまう。意味を剥奪することの快楽を提示する。ここに『パタリロ!』が支持された1980年代前半に、この国の社会を席巻した相対主義の精神を見ることは容易い。しかし、「それだけ」ではない部分を、僕はこの「クック・ロビン音頭」に感じていた。
「『クック・ロビン音頭』はたしかに『ポーの一族』の耽美で繊細な世界を笑い飛ばすことで成立しています。しかし『パタリロ!』の作者の魔夜峰央は『ポーの一族』をリスペクトこそすれ、バカにしているようには思えません。あれは作者の愛情のあるパロディのように思います。決して愚弄するものではないはずです。実際に魔夜峰央は、当時の少女マンガに現れた少年愛に現実の性規範から逸脱した超越性、永遠のものを見出そうとした作家の一人だと僕は考えています。彼は、それをむしろギャグマンガのフォーマットに落としこむことで、つまり何度正月やお盆が来ても登場人物が歳を取らない時空間に接続することで、萩尾望都とは違う方法で永遠を描こうとした。そうは考えられませんか?」
「『クック・ロビン音頭』が『ポーの一族』をある意味では補完していると?」
「たとえば『ポーの一族』はいま、雑誌連載が再開して現代に舞台を移しています。エドガーがあの繊細な指でスマートフォンの画面をスワイプしています。なかなか面白いですが、嫌な予感もします」
「嫌な予感とは?」
「アランが復活する可能性が高いです。旧作は永遠の生命を得たエドガーが、不死であるがゆえに常に周囲の人間の死に取りのこされる構造によって支えられてしまいました。しかし人気キャラクターだからという理由で、一度死にエドガーの元を去ったアランが復活してしまうようなことが起きてしまった場合、この構造は破壊されてしまいます。僕は『ポーの一族』の最大の敵は、『クック・ロビン音頭』ではなく二次創作的な続編を描きたくなってしまった作者の欲望と、それを蛇足だとわかっていながらも求めてしまう僕たち読者の欲望の結託だと考えています。もっと言えば、ことの発端はおそらくは当時宝塚のトップスターだった明日海りおが、舞台版の『ポーの一族』で完璧以上のエドガーを演じてしまったことにあります。これが萩尾望都の魂に火をともした結果として、続編が描かれ、アランが復活する流れになりつつあるというのが僕の推論です。つまり、誰も悪くない。しかし、確実にいまある名作は自壊しようとしています。むしろ『クック・ロビン音頭』的なアプローチにとどまることでしか、守れないものもあるのではないでしょうか」
「作品を作者から独立させるためのパロディが必要だと?」
「その手段としてのパロディ、そして笑いは認めるべきだと僕は考えます。このなすみそメンチカツ定食だって、和食やドイツ料理の伝統から考えたら、タチの悪いパロディのようなものかもしれません。しかし、ここには確実に豊かさがあります。僕はこの店のなすみそほど白米に合うおかずを知らないですし、メンチカツもまた、もっとも白米に合うひき肉料理のひとつだど確信しています」
「それはわかりますが、僕はクック・ロビン音頭は踊りませんよ」
 Tは頑なだった。

4.好きなポテトの話をしよう

 店を出た僕たちは、コーヒーを飲む前に今日の瞑想をしておこうということになり、近所の公園に向かって歩いていた。歩きながら、僕たちは店での議論を続けていた。
「昔、校了で深夜遅くなると「おっぱい、おっぱい」と声に出す同僚がいました」
 Tは突然、過去のことを話し始めた。いきなりなんだろうと僕がキョトンとしていると、彼は続けた。
「先日、TikTokで流れてきた動画に、静寂に耐えられない人についての動画がありました。彼はアメリカ人の青年なのですが、誰かと一緒にいて会話が途切れるとすぐに好きなポテトの種類について尋ねようとします。彼は静寂が耐えられず、実のところそれほど興味がないことを尋ねてしまうのです」
「実際に彼は相手が好きなポテトについて知りたいわけではないということですね」
「はい。彼は単に静寂がストレスなのだと思います。深夜に『おっぱい』と叫ぶ男も、すぐに『好きなポテトの話をしよう』という男も、同じだと僕は考えています」
「それは実のところ、俗人のコミュニケーションの大半がそうなのではないでしょうか。職場の会話、特に上司への相談から友人間のLINE、特にスタンプのやり取りまで、それらのコミュニケーションのほとんどにおいて内容は重要ではありません。朝に送る友人へのLINEの『眠い』というメッセージとその後のアニメキャラクターのスタンプは、実際に『眠い』ことを伝えるためではなく、他愛もないことを気軽に送るくらい、自分はあなたを近しい存在だと思っているという意思表示です。北田暁大が以前『つながりの社会性』という言葉で表現したものがこれです」
「宇野さんはこうして僕に『シェー』しませんかとか、『クック・ロビン音頭』を踊りませんかとか、言ってきますが、それと同じだと思っています」
「え? 僕は違いますよ」
「そうですか? 僕には『好きなポテトの食い方は?』と同じように聞こえます」
「まったく違います。僕は本当にTさんに『シェー』や、『クック・ロビン音頭』をして欲しいと考えています。それを見て僕が笑いたいと考えているのでもありません。僕も一緒にやります。そうすることで、Tさんが固定されたキャラクターから解放され、より自由になるのではと考えるからです」
「では、野生動物と戦ってくださいとかいうのはなんなんですか? あと、一緒に虚無僧の格好をして街を歩こうと誘いますが、あれは?」
 たしかに僕のTへの「提案」はこの十年あまりの間にバリエーションが増え、山に入り野生動物(猪やアライグマなど)と対決すること、虚無僧の格好をして街を歩くことなども交えている。
 しかしそれぞれの提案には、それぞれの理由がある。野生動物との対決は、武道家としてTが自然の脅威にどう立ち向かうのか、その身体をどう駆使するのかを見てみたいと考えているからで、虚無僧の格好で街を歩くのは、そうすることで僕たちの身体が「世間」というものから本当の意味で自由になると考えるからだ。
 僕はその旨を説明したが、Tは納得しなかった。
「そう言われて、僕が『やってみます』とは絶対にならないので、それは自分に問いかけるべき問題ではないかと思います」
「僕がその面白さをしっかり伝えることができれば、やってくれるのではと信じています」
「つまり、僕にはそれが面白いと感じるセンスがないのでしょう」
「身につけましょう。世界が広がりますよ」
「ただ、『そういうことを言っている人』が面白いと思うセンスはあります。深夜に『おっぱい』と叫ぶ男も、TikTokの動画に出てきたすぐにポテトの話をする男も、小学生男子のようで面白いと思います」
「Tさんの中で、僕はそういった人たちと同じフォルダに入っているんですね……」
 ちょっとショックだった。
 僕が悲しそうにしているのに気づいたのか、Tはそういう意味じゃありませんとフォローを入れて続けた。
「宇野さんのことも、面白いと思っているということです」
「本当ですか?」
「はい」
「本当に本当に?」
「そうですよ」
「じゃあ、シェーします?」
「しません」
「クック・ロビン音頭は?」
「踊りません」
「野生動物と……」
「戦いませんし、虚無僧のコスプレもしません」
 
 僕とTは、手頃なベンチを見つけて腰を下ろした。
 時刻は十二時の少し前で散歩中の老人たちや近所の子連れの主婦や、同じく近所の保育園の先生が園児を連れて遊びに来ている姿が多く見られる時間だった。このタイミングで現れる中年男性二人組は、明らかに浮いているのだけれど、いつものことなのでもはや僕もTも気にしなくなっていた。
 腰を下ろした僕のとなりで、Tが結跏趺坐けっかふざのポーズを取って目を閉じた。
 子連れの主婦がそんな僕たち――特にT――を目にして、すぐに目をそらした。
 あまりこの人たちにかかわりたくないという意思が明確に見て取れたが、これもいつものことなのでもはや気にならなくなっていた。
 毎週このような感じなので、「シェー」も「クック・ロビン音頭」もそれほど気にすることはないのにな、と僕は思いながら目を閉じた。誰かに見せるためではなく、持たない間を埋めるためでもなく、自分の解放のために僕たちはラーメンを食べ、瞑想し、そしてシェーをしてクック・ロビン音頭を踊るのだ。
 
 獣の世界に物語はなく
 神の世界に幻想はなく
 獣と神の世界には、過去も未来も演劇性もなく

 (#9に続く)

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連載【ラーメンと瞑想】
毎月水曜日更新

宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)、『水曜日は働かない』(ホーム社)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)、『チーム・オルタナティブの冒険』(ホーム社)など。立教大学社会学部兼任講師も務める。

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