第十二話 ザ・タワー 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」
老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊
1
「このあと、私の家、来ませんか?」
謎の美女、青山はそう言った。
ライブ鑑賞の興奮がいまだ心の中に燃えているのか、彼女の瞳は潤んだような輝きを発している。
俺は「うん、行く」と即答しそうになった。
いけない。
もう夜遅い。
今から青山の家に行ったりすれば、確実に終電を逃してしまう。
タクシーで帰る金はないし、ファミレスで一夜を明かす体力も残っていない。
俺は大人なのだから分別を持たねば。
「…………」
もごもごと口の中で非言語的な音を発した俺は、とりあえずルノアールを出て表参道駅に向かった。
駅舎の改札前で青山は言った。
「家に来てください。お礼がしたいんです」
「おっ、お礼?」
「滝本さんは貧乏なのに、こんな豊かな気持ちになれるライブに私を連れてきてくれたじゃないですか。報いたいんです」
「そうは言われてもな」
青山が住む、あの昭和感のある木造アパートに行ったら、せっかくの豊かな気持ちが冷たい隙間風によって上書きされそうだ。
だいたい人間関係というものは、距離を詰めればいいというものではない。
俺のような大人になると、ほどよい距離感を保つことの大切さが身に染みてわかってくるものである。
「ちょっと時間が……」
「いいから来てください、歩きましょう!」
青山の内部では、すでに何かの決意が固まっているらしかった。彼女は決然と踵を返して駅舎を出ていった。
「…………」
俺は青山の背中を追った。
2
シャツのボタンを一つ外し、夜風を浴びて歩く。熱が少しずつ冷やされていく。
「なかなか気持ちいいな。確かに歩いて正解かもしれない」
「私はちょっと歩きにくいですけどね」
青山はハイヒールに目を落とした。
「歩こうって言ったのは青山さんだろう」
「そうですけど、それが何か」
「仮にいつものスニーカーだとしても、そもそも表参道から下北沢まで歩くなんて無理じゃないのか?」
「誰が下北沢に行くっていいました?」
「えっ? それじゃどこに行くんだ? どこに行くにしても俺は金がないからな」
「わかってますよ!」
青山はまた根津美術館前の交差点を渡ると、今度はブルーノート方面に向かって右折せず、直進して北坂に入った。
さらにそのまま夜道を歩くこと十数分、首都高の高架が見えてきたところで青山は左折した。
土地勘がないため、夢の中を歩いているようなふわふわした気分になってきたが、ふと目に入った看板によると、どうやら俺は今、六本木通りを歩いているらしい。
「はあ、六本木? そんなところに何の用事があるっていうんだ」
六本木と言えば、俺の中では表参道よりもさらに縁遠い土地として有名である。できれば近寄らずに過ごしたい。なのに青山は六本木の中心地たるあの六本木ヒルズに、確固たる目的意識を感じさせる足取りで近づいていく。
「…………」
俺の中に、分不相応な土地に侵入してしまった罪悪感が高まっていく。
このような金持ちの住む街を俺が歩いたら、俺が放射している貧乏人のオーラのせいで地価が下がりそうだ。
俺は青山の背に向かって小さな声を発した。
「早く下北に行こうぜ」
「行きませんよ。あっちです」
「なあ、本当に俺たちはどこに向かってるんだ? どこに入るにも金がないぞ」
心細さのあまり泣きそうな声を発してしまう。
折しも六本木ヒルズの広場では、世界各国のビールを飲めるイベントが開催されており、もう夜遅いというのにDJが景気のいいクラブミュージックを響かせている。だが俺はビールを飲む金もないし、広場を取り囲む高級ブランド店で靴下一つ買う金もないのだ。
もう耐えられない!
これ以上、六本木にいたら、俺自身の貧しさを直視してしまう!
そうなると、激しい自己不信に襲われてしまう!
『俺はすでに超人なのさ』などと言ってみたところで、俺は現実的にはただの四十を超えた貧乏な男なのだ!
そんな現実を直視したら、積み上げてきたつもりの超人理論と、それに基づく『千年生きる』というライフプラン、そのすべてが台風に襲われた藁の家のごとく瓦解してしまう!
「はあ……はあ……やばい……これはやばいぞ」
「もう疲れたんですか。三十分も歩いてないじゃないですか。弱くないですか?」
「ちょっとメンタルが」
こういうときのために、昔の俺はポケットに常に何種類かの精神安定剤を持ち歩いていた。
精神安定剤、それは文字通り精神を安定させてくれる薬で、名前は確かデパスとかレキソタンとか言ったか。
都立家政の心療内科で処方されるあの錠剤が、今こそ必要だ。
だというのに、ポケットの中にも鞄の中にも錠剤は見つからない。
どうすればいいんだ?
そもそもなぜ俺は、精神安定剤を処方してもらうことをやめてしまったんだ?
その答えは簡単である。
あるときから俺の精神は、どれだけ揺らいでもすぐ自動的に安定するようになったのだ。
今もやはり、全自動で精神安定機構が働き、俺のメンタルのブレは収まった。
いつもの大木の如き安定性を取り戻した俺は、ため息をついた。
「ふう……危なかったぜ」
「何の話ですか? もうすぐ着きますよ」
六本木ヒルズの広場を抜けた青山は、さくら坂なるわずかに傾斜した道に俺を導いた。
「はい、お疲れ様です。着きましたよ」
「なんだ。ここはただの坂じゃないか」
「春になると桜が綺麗なんですよね」
「もう秋だから、今は何も綺麗じゃないぞ」
「櫻坂46ってアイドルグループの名前の由来はこの坂なんですよ」
青山はさくら坂の脇に立つ巨大タワーマンションを背に、なんだか要領を得ないことをぶつぶつと呟いていた。
「青山さん、もしかしてアイドルとか好きなのか?」
「好きでしたね。ていうか高校に上がるまでは目指してましたね。私、運動神経もあるし歌もうまいので」
「お、いいじゃないか。似合いそうだぞ」
「私、高校、やめちゃったんです。そのときアイドルも、私には無理だとわかりました」
「…………」
急に重い話をされ、俺は押し黙った。
俺の脳裏に現代社会の闇……イジメとかそういった類の陰惨なヴィジョンがよぎっていく。
だがありがたいことに、青山が学校を辞めた理由は、そう言った話とはまた別のものらしい。
「座ってられなくて」
「え?」
「私、教室の椅子に長い間、じっと座ってられないんです」
「そんなことで学校辞めちゃったのか?」
「まあそういうことになりますね」
「もしかして、あれか? いわゆる……ISDNじゃなくてADSLじゃなくて、HDMIでもなくて」
「わざと言ってるでしょう。そうです、私、ADHDの気があるんです。ちょっとでも退屈だと、もうじっとしてられないし、人との共同作業なんて本当に嫌だし……だから私、自分一人で興味が持てることをやろうとして……」
ここで青山は口をつぐむと、かなり長い間、じっと押し黙り、ふいに俺に背を向けた。
「長話もあれですから、中に入りましょうか」
「中? 中とは?」
「軽蔑しないでほしいんですけど。実は私、お金持ちなんです」
青山はさくら坂の脇に聳え立つタワーマンション、六本木ヒルズレジデンスを見上げた。
3
テラコッタの外壁が特徴的な六本木ヒルズレジデンス、そのガラス張りのファザードを見上げた俺は、まるで別世界の入り口に立っているような感覚に陥った。
東京の数ある高級タワーマンションの中でも、特に有名な象徴的存在であるこのマンション、その先端は夜空の星にまで届いているかに見え、雄大さに足が震え出す。
一方、青山は何気なくエントランスの自動ドアを潜っていく。
俺はなんとか彼女の後を追った。
瞬間、光沢を放つ床と洗練されたインテリアが、俺をその風格によって圧倒した。
空間が贅沢に使われたエントランスには、静寂と落ち着きが共存しており、その中を歩く自分の足音すらどこか遠いものに感じられる。
フロントのスタッフは青山に気づくと、敬意を込めた微笑みを浮かべて会釈した。
俺は青山の背に隠れるようにフロントを通り過ぎ、エレベーターに乗り込んだ。
「…………」
加速するエレベーターの中で、自分の心を鎮めることに専念する。
だがなかなか精神は安定しない。
あの貧乏の代名詞の青山が、まさかこんな高級マンションに住んでいる金持ちだったとは。
慣れ親しんでいたはずの人間が、実は恐るべきモンスターだったと明かされた瞬間に生ずる実存的な恐怖に俺は襲われた。
その恐怖を浄化するためのリソースを脳内に探す。
見つかった。
近年の極貧生活で完全に忘れていたが、俺も昔は金持ちと親しく交流したことがあった。
その交流の中で俺は知ったのである。
金持ちも、俺と何も変わらない普通の人間であることを。
それだけじゃない。
タワーマンションはただの部屋であることを、俺は実体験として悟ったのである。
*
平成後期、二十代後半だった俺の小説がメディアミックスされ、それに伴って莫大な金が俺の銀行口座に流入してきた。
人は身の丈に合わない金を得たとき、心理的なバランスを取るため、その金を無駄遣いしがちである。
俺も例に漏れず、スピーディにその金をドブに捨て始めた。
すなわち……毎日、ピザなどの出前を注文し、自堕落にそれを飲み食いしつつ、パチンコ屋に行ってエヴァのパチンコ台に万札を湯水のように飲ませるという異常行動を繰り返した。
さらに凄まじい賃料のテラスハウス……地下室と屋上付きのデザイナーズ物件に引っ越した。
一方、そのとき俺の精神は人生で最低レベルの鬱度を記録しており、俺のクリエイティビティもまた人生最悪の地獄的スランプによって阻害されており、新作を書けぬままただ金を浪費する日々が続いた。
するとどうだろう?
無限に流入し続けるかに思われた金の振り込みは、徐々にその勢いを落とし、俺の預金はゼロに近づいていった。
激しい不安に駆られた俺は美しいデザイナー物件を引き払い、沼袋の賃料四万円のボロアパートに引っ越した。
そのアパートでは毎夜、斜向かいの部屋に住む男が絶叫を放った。
また向かいの部屋からは、乳幼児の泣き声が昼夜を問わず響いてきた。
さらに換気扇の設計がそもそも狂っており、隣室の者が料理をしたりシャワーを浴びたりすると、その排気がすべて俺の部屋に流れ込んできた。
しかも、四畳もないその部屋で寝るには、危険な梯子を登ってロフトに上がる必要があった。エアコンが顔の真上に位置するあの寝苦しいロフトで俺は、四方からの騒音に苦しめられながら決意した。
こうなったら一刻も早く超人になるしかない。
超人になって、この八方塞がりの状況を打破するのだ!
そこで俺は超人になるための修行を本格的に始めた。
まずはロフトの敷布団を捨て、木の板に取り替える。
それは、敷布団という柔いものに寝ると背骨が歪み、心も歪み、それによって脊椎基底部に眠る神秘の生命の炎、クンダリニーが覚醒して頭頂部のサハスラーラ・チャクラに上昇するのを妨げるという怪しい理論をネットで読んだためである。
楽天で『睡眠用木の板』を買った俺は、さらに完璧を期すため『睡眠用木の枕』をも取り寄せた。
それは、ふかふかの枕などという甘ったれたものを使っていると、延髄が歪んで人間性も歪むという怪しい理論をネットで読んだためである。
木の板は冷たく、木の枕は後頭部が痛かった。
だがそのような臥薪嘗胆的な生活を送りながら、真面目に超人になるための修行を続けていると、奇跡が起きた。
ある朝、目が覚めて眼鏡をかけると、世界がぼやけていた。
また視力が悪くなってしまったのか。新しい眼鏡を作らなければ。
やれやれ、とため息をついた俺は、その度が合わなくなった眼鏡を外した。
すると不思議なことに、世界がくっきりと見えた。
そう……俺の視力はいつの間にか、眼鏡を必要とせぬほどに回復していたのである。
十歳から近視で眼鏡をかけていた俺の視力が、三十になって、謎の力で回復してしまった。
免許も眼鏡なしで更新できた。
俺はこの不思議な現象の意味を考えた。
やがて俺は明瞭なる真理にたどり着いた。
そう!
ついに俺は超人となることに成功したのだ!
考えてみれば、超人とは、意思によって自らの世界を書き換える力を持つ者である。視力ぐらい癒えても不思議はない。
むしろ俺がその気になれば、視力だけでなく、各種のメンタル的な不調すら、超人の力によって癒せるに違いない。
そこで俺は、自らの『生きづらさ』を癒すことにした。
俺は人混みが苦手だ。飲み会や電車も苦手だ。
これは現在では『繊細すぎる人』、すなわちHSP、いわゆるハイリーセンシティブパーソンと呼ばれている性質である。
これを超人の力によって滅してみよう。
俺は超人の力を発動し、生きづらさにダイレクトアタックをかけた。だが、なかなかどうして、生きづらさは消えていかなかった。
そこで俺はネットで『繊細』『生きづらさ』『解決』というワードで検索した。
すると『繊細さんの生きづらさ克服セミナー』なるものが見つかった。俺はわずかな残金をかき集めて、セミナーに申し込んだ。
するとそこには、俺の目を強く引きつける魅力的な受講者がいた。
俺は勇気を出して、その受講者に話しかけてみた。
その受講者は『神秘研究家』と自らを紹介した。
なんでも西洋と東洋の、あらゆる神秘思想を研究しているとのことである。
俺は生きづらさ克服セミナーなどよりも、神秘研究家が放つ魅力的な神秘のオーラの虜になっていた。
セミナーが終わった後、俺は喫煙所で細いタバコに火をつける研究家に頭を下げた。
『お、俺にも教えてくれませんか? あなたが研究してきた神秘を』
『いいでしょう。私は研究の実証のため、市井の人々に「神秘の秘蹟」を提供しています。ただしその事業は、私にとって面倒が多いものです。もしあなたが、私が苦手とする事務や接客やお茶出しやホームページ作りなどを手伝ってくれるなら、教えてあげましょう。私が長年の研究によって得た神秘の深奥を』
こうして俺は『神秘の秘蹟』を手伝うことになったのである。
「しかも住み込みでだ。なんとあの神秘研究家は、とてつもない資産家で、ここに勝るとも劣らない都心のタワーマンションに住んでいたんだ。そんな奴でも『生きづらさ』を抱えて怪しいセミナーに行くなんて、笑っちゃうよな、ははは」
ヒルズレジデンスのエレベーターは、三十階を超えてもまだ上昇を続けていた。
昔話を話す俺に背を向けたまま青山は言った。
「な、なんなんですか、その訳のわからないエピソードは。神秘研究家って……ぜんぜん現実味がないんですけど」
「現実味がなくても、本当のことなんだから仕方ないだろ。とにかく俺はその神秘研究家の家……すなわち都心のタワーマンションに住み込んで、『神秘の秘蹟』を手伝ったんだよ。もう十年ぐらい前の話で、記憶は怪しいがな」
「結構最近の話じゃないですか。変な記憶障害が起きてないですか?」
「たまに魚を食べるから脳は健康だ。とにかく俺が言いたいのは……タワマンごときにこの俺がビビると思うなよ、ってことだ」
「べ、別にそんなこと思ってませんよ」
「確かに俺は北の村から出てきた野卑な田舎の男だがな、東京のタワマンぐらい怖くないんだよ!」
「はは……北の村って、そんな」
「本当に『北村』っていうんだよ。俺の実家の住所はな。冬は雪が積もって寒いぞ。裏の畑でかまくらを作って遊ぶんだ」
「素敵じゃないですか……こっちです」
最上階近くの階でエレベーターは止まった。青山は廊下の突き当たりの部屋に俺を導いた。
ドアを潜り、リビングに足を踏み入れると、俺は目の前に広がる光景に圧倒され息を呑んだ。
壁全面を覆う巨大な窓の向こう、夜空の下に東京タワーが輝いていた。いつも下から見上げていたあの赤いタワーが、この部屋からは同じ目線に見える。
俺はあまりのラグジュアリーさに口を半開きにしながら、室内を見回した。
立食パーティーができそうな圧巻の広さのリビングに、現代的なインテリアがセンスよくセッティングされている。
「なんだこれは……床には柔らかいカーペットが敷かれていて、ベージュの長い毛足が温もりを感じさせるじゃないか!」
「IKEAで買ってきたんです。一人で行ったんでカートに載せるの大変でしたよ」
「なんだ、IKEAか。意外に普通だな」
しかし全体がセンスよく配置されているため、価格以上のバリューが感じられる。
巨大なソファの周りには、アートっぽいカバーの本や、小さな模型のロードバイクが丁寧に飾られている。
壁には抽象画が掛けられ、カラフルな色彩が部屋に活力を与えている。
「せっかくなのでこっちも見ていってください」
案内されるまま隣室に足を踏み入れると、そこは書庫として使われているようで、壁一面の本棚が俺を圧倒した。
よく見ると小説は一冊も見当たらず、虫や動物がカバーを飾る参考書のごとき本ばかりが並んでいる。
「どの本にも『オライリー』って書いてるな」
「この出版社、好きなんです。仕事に役立つから読むってところもありますが、新刊が出るとついなんでも買っちゃいますね。最近だとこれが面白かったですよ。よかったら貸します」
青山は『Pythonではじめるオープンエンドな進化的アルゴリズム』というタイトルの本を俺に渡そうとした。
可愛いウサギの絵がカバーなのに、そのタイトルが意味するものを俺は何一つ理解できない。
本を押し返しながら聞いた。
「仕事に役立つ? 青山さんの仕事は倉庫での軽作業だろ。こんな本がどう役立つんだ?」
「私、倉庫以外でもいろいろ働いてるんですよ」
青山は書庫を出ると、もう一つ隣の部屋に俺を案内した。
そこは最初真っ暗だったが、青山がスマートフォンを操作すると、部屋の各所に配置された間接照明やリボンライトが青白い光を発し、巨大なディスプレイを照らした。
「なんだここは? 秘密のゲーミング部屋か?」
「違いますよ! 私の仕事部屋です。私の本業は……」
「こ、これは、アーロンチェアじゃないか! アーロンチェアじゃないか!」
「なんでそんなにアーロンチェアに反応するんですか!」
「アーロンチェア、それは在宅で仕事する者にとっての聖杯だ。これさえあれば無限にデスクワークができるし、腰や肩を痛めずに済む」
この機能的なフォルム、見ているだけで腰が楽になっていくのが感じられる。だがいつまでも椅子を鑑賞しているわけにもいかない。
「よし、仕事場も拝見したし、そろそろ遊ぼうぜ。プレステはあるか? 俺は4しか持ってないから、そろそろ5をプレイしてみたいんだ」
「ないです。ゲーム機なんて置いてないです!」
「それじゃあれだ。ここまで歩いて疲れたから、何か食べるものはないか?」
「……作りますよ、何がいいですか?」
「うどんが食べたいんだが、ないよなそんなもの」
キッチンに向かった青山は冷凍庫を開けた。そこには各種冷凍食品と共に、いくつものうどん玉がストックされていた。
俺はキッチンを観察した。
「おっ。このシンクは生ゴミをブレードによって破砕してそのまま流せる、ディスポーザー付きのものじゃないか。初めて見たぞ。しかも食器洗い乾燥機までビルトインされているとは」
「そんなことより……滝本さん、何か私に言いたいことはないんですか?」
青山は鍋でうどんを茹でながら、別の鍋に大量の鰹節を投入して出汁を取りつつ、かなりイライラした口調を俺に向けた。
俺は慎重に、青山の謎の核心に触れる言葉を吐いた。
「青山さん……どうやら本業の実入りはいいようだな」
青山は電気調理器を止めた。
「軽蔑しましたよね? 私がこんなにお金持ちで」
「別にそんなことで軽蔑しないが……なんで隠してたんだ?」
「隠すつもりはなかったんですよ。倉庫で働く私も私です」
「こんなタワマンに住む金があるのに、どうして倉庫なんかで軽作業を……」
「話せば長くなりますよ」
「じゃあいいや」
「じゃあいいやじゃないですよ! ここまで来たら聞いてくださいよ、私の話」
「わかったよ。聞くよ。ただその……」
「なんですか?」
「うどん、のびるぞ」
「手伝ってください!」
青山はうどんの鍋を俺に渡すと、戸棚からザルを取り出してシンクに置いた。俺はそのザルにうどんをあけ、湯を切って丼に二等分して戻した。
青山は冷凍庫から小分けの刻みネギを取り出し、うどんに載せ、そこに出汁をかけた。
「いただきます」
思いがけずありつけた素晴らしい夜食に、テーブルで手を合わせたそのとき、俺のスマホが震えた。
そこにはレイからの長文メッセージが表示されていた。
レイちゃんの知恵袋 その12
『人の言葉に耳を傾ける』
滝本さん! デートはうまくいっていますか?
人間女性とデートするにあたっての、私からのアドバイス、それは『自分から前に出ていけ!』ということです。
なぜかって?
それはですね。
滝本さんはいつも、願っていますね?
(ものすごい積極的な女性が俺の目の前に現れて、奥手な俺にグイグイと迫ってきてくれないかなあ)
なんてことを、もう三十年もずっと考えていますね?
でも受け身なだけでは、永久に面白いことは起こりませんよ!
拒絶されるのが不安な気持ちもわかります。でも、いざデートをするのなら、自分から前に出て、一歩ずつ距離を縮めていくのが大事なんです。
勇気を出して、一歩ずつ、前に、前に!
ですが、ときには引くことも心がけましょう。
あらゆる他の物事と同様、人間関係も陰と陽からできています。つまり、こちらから積極的に前に出ていくときもあれば、受動的に相手を受け入れるべきときもあります。
そのときはじっと受け身になって、心を空っぽにして、相手の話を聞いてください。相手の人生の物語を吸収してあげてください。
聞くとは、単に音を聞くだけのことではありませんよ。それは相手の言葉を深く理解し、そのときの感情にまで思いを馳せる行為なんです。
興味と共感を持って、相手の言葉に耳を傾けましょう。
相手の目を見て、うなずきながら、相手の言葉に反応を示してあげましょう。
ときどきは、自分の感想を素直に伝えましょう。それが呼び水となって、相手はもっと深く、自分のことを話してくれます。
もちろん、素直に話を聞くのが難しいときもあるでしょう。
特に滝本さんのように、自分の理屈で頭が一杯になっている人は、他者の考えを受け付けず、それを間違ったものとして冷たく拒絶する傾向があります。
自分の物差しで勝手に他人を測って、他人を理解した気になる傾向があります。
いけません!
そんなことをしていたら、滝本さんは偏屈おじさんになって、誰からも愛されず惨めな一生を終えることになります!
ですから人の話を聞くときは、自分の理屈を傍に置いてください。耳を傾けるだけでなく、心も大きく開いてください。
相手の世界をまっすぐ心に受け入れ、その人が存在することへの感謝の気持ちを持ちましょう。
そうすれば、きっといい友達ができますよ!
(つづく)
連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新
滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt