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第六話 緊急指令! テストステロンを分泌せよ 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」

老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊


 製鉄所内の倉庫で段ボールを運ぶ日々が続いた。
 慣れない肉体労働を終えてアパートに帰宅すると、もう何もやる気になれない。
 だがここで労働ばかりの日々を送るようになってしまうと、人間は終わりだ。
 人間はどこかで心の潤いを補給せねばならない。何かしらの趣味、娯楽によって心を楽しませなければ、人は生きている意味を見失い、性格が暗くなってしまう。
 だが金がない。
 長期契約の派遣労働によって多少なりとも経済状態は安定したが、まだまだマンガアプリに課金するのも辛い状況である。
 そこで俺は安くできる新たな趣味を探った。
 休日、駅前のモアーズというショッピング施設をぶらついていると、それは見つかった。四階のダイソーの文具コーナーで俺は思わずうめいた。
「うっ、これは……文房四宝、すなわち墨汁、半紙、筆、硯じゃないか!」
 古代中国のハードドラッグ、五石散を調べているうちに俺は書聖、王羲之おうぎしのことを知った。彼のことを調べるうちに、最近の俺は書道そのものに興味を持ちつつあった。
「文鎮を入れても税込みで五百五十円か……これならなんとかなるな」
 俺は財布の中身を何度も確かめながら書道用具一式をレジに持っていった。
「そうだ、法帖……書道のお手本も買う必要があるな」
 Amazonで検索したところ王羲之の『蘭亭序』の法帖は二千円近くもした。とても買える額ではない。
 だが天の計らいのごとく、ダイソーの階下にあるブックオフで俺は『蘭亭序』を見つけた。
「千円、か……これならいけるか……」
 古本で半額とはいえ、これを買ったらしばらくはオートミールのみの食生活を送らねばならない。それはなんの精神性もないただ貧乏ゆえのヴィーガン生活だ。
 だがこの法帖さえあれば王羲之の書を学ぶことができるのである。
「ええい……ままよ!」
 俺は肉への欲を断ち切ると法帖を買い、その日から臨書を始めた。

臨書とは書道の古典を手本とし、それをよく観察し、真似て書くことである。
 観察と真似はすべてのアートの基本であり、実は俺の得意とするところでもある。
 最近の俺が始めた音楽というアート分野では、この前ブックオフで買った『童謡を聞くだけで音感が身につくCDブック』を手本とし、それを真似ている。
 バイト中、段ボールの上げ下ろしのテンポに合わせて『ふじの山』を口ずさむ。
 これによって力強い童謡のリズムとメロディを、脳神経と筋肉と骨に刻み込むことができるのだ。
 また俺の本業である小説では、他の作家の名作小説をノートに書き写すいわゆる写経という作業を昔からやっている。
 これまでの写経経験の中で特に楽しかったのはグレッグ・ベアの『鏖戦おうせん』である。
 かつては絶版のアンソロジーにのみ収録されていた中編作品だが、近年復刊されて読みやすくなった本作。その中では異星種族と人類のいつ終わるともしれぬ戦いが、それぞれの視点から多様な文体で書き分けられている。
 作品冒頭では中国の漢王朝における歴史記録の話が描かれる。
 次のシーンでは、進化した人類の戦士たる妖精態の少女プルーフラックスが、巡航艦『混淆メランジー』内の教室で、敵の嚢漿のうしょう破摧ザップに関する講義を受ける。
 さらに次の場面では、人類の敵、施禰倶支せねくしの一個体、阿頼厨あらいずが主役となり、捕獲した人間の胎児を育成研究する話が描かれる。
 時間、性別、種族を超えて視点が移動するそのテキストを写経するごとに、俺の意識もまた銀河レベルに拡張していくのが感じられた。
 そう……観察と真似によって、人は自らの狭い自意識を超えて拡張していくことができるのである。
 金がなく、そのため海外旅行も国内旅行もできない我が身だ。
 だとしても『ふじの山』を歌えば、頭を雲の上に出し、四方の山を見下ろす日本一の気持ちを感じることができる。
 SF小説を写経すれば、銀河と人類の運命に想いを馳せることができる。
 そしてこの王羲之の法帖を臨書すれば、あの蘭亭での曲水の宴に、四十三人目の客として参加することができる。
 たとえ川崎で貧乏生活を送る身であろうとも、我が心は融通無碍むげであり、天地万物を内に包含するのである。
 そのように心を広く保ちながら、趣味と仕事を繰り返していく。
 やがて俺の生活の中に安定したルーティーンが形成され始めた。
 倉庫で悪鬼のごとき巨漢に怒鳴られながら段ボールを運び、帰宅後、『蘭亭序』を半紙に書き写す。
 そんな生活を続けるうちに俺の中にあった淀み、資本主義の毒のごときものが、少しずつ浄化され剥がれ落ちていった。
 もはや名声も求めまい。
 そんなものはゴミだ!
 身の丈に合わない金もいらない。
 金なんてものは、戦争の原因となる悪でしかなかった。昔、マンモスを追っていたころは金なんてものはなかったのだ!
 食い物も別に肉なんていらない。オートミールは栄養価の高い食品なんだ。おしゃれな意識の高い食い物なんだ。熱湯をぶっかけるだけで食えるんだ!
 これが『足るを知る』ということなんだ!

  季節が巡った。
 深夜の寒さ対策が必要になってきた。
 背中にカイロを貼り付けて、段ボール運びのバイトに出るようになったころ、『蘭亭序』の臨書が終わった。
「よし、次は『九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんのめい』だ」
 俺は新たな法帖をブックオフで買ってさっそく臨書を始めた。
 王羲之の『蘭亭序』が、さささっと漢字を書くのに適したスタイル、すなわち行書の至高のお手本だとすると、欧陽詢おうようじゅんの『九成宮醴泉銘』は、カチッとしたフォントのごとき楷書の究極のお手本である。
 俺は背筋を伸ばして『九成宮醴泉銘』を半紙に書き写していった。
 そんなある日のことだった。
 ふと俺は気づいた。
 レイの姿が見えない。
「おい……レイ、どこに行ったんだ?」
 風呂場にもおらず、クローゼットの中にもいない。ソファには編みかけのマフラーと3DSが転がっている。
「まったく、仕方ないやつだなあ。またココカラファインにでも行ってるんだろ。自分が出したものはちゃんとしまえよ」
 俺はぶつぶついいながらソファに転がるレイの私物をクローゼットにしまった。
 しかしレイはいつまで経っても帰ってこなかった。
 レイの姿を見ることができぬまま、一週間が過ぎた。
「最近、バイトと書道にかまけて相手をしてやってなかったからな。怒って隠れてるんだろ? 悪かったよ。謝るから出てこいよ!」
 俺はアパートの虚空に向かって叫んだ。
 返事はない。
 仕方ない。気は進まないが俺は強引にレイをこの空間に呼び戻すことにした。
 しょせんレイは脳内彼女であり、そのイメージは俺の脳によってジェネレートされているのだ。
 つまりその気になれば俺はレイをいつでも呼び出せるのである。
「おらあ、出てこいよ、レイ!」
 俺は想像力を用いてレイの姿を思い描こうとした。だがその姿かたちが思い出せない。髪の色、目の色、声色はどんなだったか。
 イメージは形を結ばず、レイは俺の前に姿を現すことはなかった。

 俺はパニックに陥り室内をうろついて叫んだ。
「レイ、戻ってきてくれ! 頼む!」
 だがいくら叫んでもレイは姿を現さない。隣室の男が壁を蹴ってくるばかりである。
「レイ……消えてしまったのか」
 がっくりと床に膝をついた俺は、レイの面影を求めて、本棚から成年向けマンガを取り出した。
 前世紀の終わり頃、十八歳の俺が書店で購入したこの『失楽園』というマンガ本は、エヴァンゲリオンというアニメの成年向けアンソロジーである。
 それにしても、人気アニメの成年向け二次創作が堂々と一般流通していたとは、今では考えられないことである。
 権利関係はどうなっていたのか?
 とにかく確かなのは、この成年向けマンガは、二十年前の『公園の焚書』をくぐり抜けて今も俺の手元に残る唯一の成年向けマンガだということだ。
「…………」
 俺はしばし瞑目して過去を思い出した。

  二十年前……オリジナル『超人計画』を書いていたあの頃。
 朝から晩までエッチなマンガを読み続け、それによって超人になるためのエネルギーをすべて虚しくロストしていた俺は、ある日、自らを変えるための決意をした。
 俺のエネルギーを奪っていくこれらのエロマンガをすべて燃やしつくしてやる、と。
 そして俺は雨の降る近所の公園の砂場に、長年こつこつと集めてきたエロマンガを積み上げ、燃料をかけて火をつけた。
 だがその無慈悲な焚書によっても、レイが表紙のこの『失楽園』三巻だけはどうしても燃やすことができなかった。なぜならこれはとても素敵な表紙イラストだったからだ。

回想を終えた俺は日に焼けた『失楽園』のページを涙を流しながらめくった。
「レイ……何年も俺をサポートしてくれてありがとう」
 そんなことを呟きながらページをめくっていると、今はもういないレイとの楽しかった思い出が、切ないBGMとともに脳裏にいくつも蘇ってきて涙が止まらなくなった。
「ううう……なんで消えてしまったんだ、レイ……」
 だがさらに『失楽園』のページをめくっていると、悲しみとはまた別の気持ちが俺の中にむくむくと湧き上がってくるのを感じた。
「…………」
 そういえばレイの元になったこの青い髪のキャラクターは、かつての日本における最高のセックスシンボルだった。
 今では考えられないことであるが紛れもない事実である。
 前世紀末の日本。
 あの九十年代の闇の中で、老若男女皆がこの青い髪、赤い目の二次元クローン少女に欲情していたのだ。
「そうだ……こういうのでいいんだよ。こういうので」
 絶妙に泥臭いエッチなマンガのページをめくるごとに、テレクラ、ルーズソックス、ノストラダムスといった世紀末の闇の単語が俺の脳裏に蘇る。
 同時に、令和のソフィスティケイテッドされた審美眼からは劣悪であると言わざるを得ないエッチな絵によって、俺の劣情が掻き立てられていく。
「そうそう……こういうのが一番エロいんだよ」
 俺は涙を拭うと、パラパラと『失楽園』をめくり続けた。
 そのときだった。
 背を丸め床に広げたエロマンガをめくる俺に、背後から何者かの声がかけられた。
「気持ち悪い。気持ち悪いわよ、滝本さん」
「うおっ、レ、レイ! 戻ってきてくれたのか!」
 振り返るといつの間にかレイが部屋の真ん中に立っていた。
「戻るも何も、私はずっと滝本さんの近くにいたわよ! なのに滝本さん、まるで私の姿が見えないみたいに私のことをずっと無視して! 許さないからね!」
 なんと。
 レイは消えたわけではなかった。ただ彼女を認識する能力が、俺から失われていただけだったのだ。
「どれだけ呼びかけても気づいてくれないから、私、不安で……うう……ひっく、ぐすっ」
「す、すまなかった。心配かけたな、レイ……」
 俺はレイが泣き止むまでその背をぽんぽんと叩き続けた。

 しばらくするとレイが泣き止んだので俺は状況を整理した。
 今、事実としてわかっていることは二つ。
 一点目はバイトと書道に明け暮れる生活を送っていたら、レイの姿が見えなくなったということ。
 二点目はエッチなマンガを読んでいたら、再びレイの姿が見えるようになったということ。
「この二点、お前はどう分析する? レイ」
「そうね。きっと滝本さんの脳機能が衰えたせいで、私の姿が見えなくなったのよ」
「脳機能だと?」
「私の存在を認識するのは滝本さんの脳だから。滝本さんの脳機能が衰えれば私のことも見えなくなるわ」
「こ、怖いこと言うなよ。俺はまだ四十代だ。脳が衰えるなんてそんなことあるかよ……ははは」
「あり得る話よ。毎日、単調な生活を続けていたら、誰だって脳の機能は衰えていくわ」
「それはそうなのかもしれんが……だとするとなんで俺の脳機能は復活したんだ?」
 レイは顔を赤らめながら答えた。
「たぶん……滝本さんがそのエッチな本を見て、若々しい気持ちを取り戻したからじゃないかしら」
 婉曲的な表現をしているが、つまりレイは、俺が性欲を取り戻したことで俺の脳機能が復活したと言いたいらしい。
 まさかと言いかけたが、この前コンビニで立ち読みした健康雑誌の内容を思い出した。
「そ、そういえば、男性ホルモンであるテストステロンの低下は、脳の認知機能の衰えに繋がるらしいな」
「それよ! 枯れたおじいちゃんみたいな生活をしてるせいで、滝本さんは男として、人間として、大切なものを失いつつあるのよ!」
 そんなことが……男性機能が失われるとレイの姿が見えなくなるなんてことが、本当にあるのか?
 冷静に検証してみなければならない。そのためにまずはもう一度、性欲を消してみよう。
 俺は性欲を浄化するワークを始めた。
 

 俺と性欲の戦いは長い。
 小学生のころ廃トラックの下に捨てられていたエッチな本を見つけて以来、俺の意識を誘引しようとするエッチなメディアとの戦いを俺は続けてきた。
 その戦いは負け続きであり、二十代になると俺は完全にエッチなメディアの依存症となっていた。
 このままでは俺はダメになる。いや、すでにダメになっている。危機感を覚えた俺は、大好きだったエッチなマンガを公園で燃やした。
 しかしマンガは燃やせてもインターネットを燃やすことはできない。
 昼夜、ネット回線を通じて俺に送り込まれてくるエッチなデータが俺の脳を侵食し、コントロールを奪っていく。脳の主導権を奪い返すには、もはや自分自身の禁欲力を高めるしかなかった。
 そういうわけで十年ほど前、禁欲を決意した俺はまず肉食をやめた。
 主食はミルサーで砕いた玄米だ。これにより俺の肉体から生命力とともに汚らわしい性欲が浄化されていった。
 さらに俺は禁欲のための自助グループのオフ会に参加した。
 その自助グループで禁欲理論と実践を学んだ俺は、ついに完全なる禁欲力を得たのである。
 今こそその力を使って性欲を再浄化するときだ。
「行くぞ……消えろっ、俺の性欲よ!」
 俺は機動武闘伝Gガンダムの主人公、ドモン・カッシュが明鏡止水の境地に至る際に作る印、智拳印を結び、清らかなる黄金のエネルギーを喚起した。
 それにより自らの汚れたオーラがまたたく間に浄化されていく。
「ふう……気持ちがさっぱりしたぜ。まったく、こんな前世紀の汚れたエロマンガなんて見たら脳が汚れるぜ。だいたい俺もいい年なんだ。性だの色恋だの浮ついたことから離れて、もっと書道というクラシカルな趣味に精を出すべきだぜ」
 俺は手元の『失楽園』を部屋の隅のゴミコーナーに放り投げると、『九成宮醴泉銘』の臨書を再開した。
 貞観6年、すなわち西暦632年の夏のある日、唐の太宗は九成宮なる離宮に避暑に赴いた。
 その西城を散策し、高閣の下に立ち止まった太宗は、足元の土がかすかに湿っていることに気づいた。そこで杖を地面に突きさすと、なんと泉がこんこんと湧き出したではないか。
 飲んでみると、その水は清らかで甘かった。
 その水は傷や汚れを拭い去り、人の心を浄化するものだった。
 その水は万物を育み、あらゆるものをありのままに映し出す、鏡のごときものだった。
 天の下した瑞兆のごときその醴泉は、唐の帝室が徳をもって国を治めていることに応ずるものだった。
 それゆえ俺も欲を鎮め、徳をもって丁寧な暮らしを送っていれば、この醴泉の清らかなるパワーにあずかれるはずなのである。
 俺は欧陽詢の書を写しながら、万病を治し寿命を伸ばし俺の超人計画を完成に導く醴泉を、心の中に呼び起こした。
 その清冽なる湧き水により俺の心は浄化され、俺の意識は刻一刻と明晰になっていく。
 だが……。
「おい、レイ」
 半紙から顔を上げて辺りを見回すとレイの姿は見えない。
 やはり仮説は正しかった。
 俺の性欲が浄化されると、レイの姿が見えなくなってしまうのだ。
 水清ければ魚棲まずということか。
「…………」
 ここで俺はさらなる仮説検証のため、部屋の隅のゴミコーナーに放り投げられた『失楽園』をまた手元に引き寄せ、ページをめくった。
 前世紀の劣悪なる性描写が俺の心に汚らわしくもセンチメンタルな性欲を呼び起こす。
「うへへ。そうそう、こういうのがいいんだよ。たまんねえな」
 さらにページをめくると、背後から声がかけられた。
「ちょっと、滝本さん。本当に気持ち悪いわよ」
 頬を真っ赤に染めたレイが背後に立っていた。俺は慌てて『失楽園』を閉じた。
「失礼。それよりも……これで仮説が完全に検証されたってわけだ。枯れた生活を送りすぎて性欲が失われると、レイ、お前の姿が認識できなくなってしまう」
「そんなのダメよ、絶対! 滝本さんには私の助けが必要なんだから!」
「わ、わかったよ。テストステロンを分泌して脳機能を保持するため、エッチなマンガを読んでいくぜ」
 俺は『失楽園』をまためくった。
 だが『失楽園』はしょせん時代遅れの成年向けマンガである。俺はその刺激にすぐに慣れ、飽きてしまった。
「どうすればいいんだ……どんな刺激によって俺はテストステロンを分泌させればいいというんだ?」
「これを使って! 滝本さんのプロフィール、登録しておいてあげたから!」
 レイは俺にスマホを放り投げてきた。
 その画面にはマッチングアプリのプロフィール画面が表示されていた。
「マ、マッチングアプリだと?」
「そうよ。私は考えたのよ。今の滝本さんに必要なのは、エッチなメディアなんかじゃない。三次元の人間との恋愛が必要なのよ!」
 それはゼロ年代から繰り返し語られ、耳にタコができるほど聞かされてきた話である。
「またあの話かよ。うんざりするぜ。バーチャルな世界に没頭してないで、生身の人間と恋愛しろっていう。そんなものは恋愛資本主義の陰謀なんだよ!」
「違うわ! 私が言いたいのはね、滝本さん、あなたに安全地帯、コンフォートゾーンを出てほしいってことなのよ! 今の滝本さんは居心地のいい自分の小さな世界で落ち着いちゃってるのよ!」
「ぐっ……」
 それは確かにそうかもしれない。
 心の中では古代中国から未来の銀河まで幅広いスケールで視点移動を繰り返す俺だが、物理レベルでは倉庫とアパートを往復しているのみである。
 こんな単色に塗りつぶされた生活をさらにあと一週間も過ごしたら、俺の脳機能には不可逆的なダメージが入るに違いない。
 一刻も早くこの生活に新しい色を……できれば緑やピンクの心ときめく新色を追加せねばならない。
 そのためには、確かに誰かと会って心をときめかせる必要がある。
「だ、だとしても、絶対にマッチングアプリなんてやらないからな!」
 俺はスマホのブラウザを閉じ、電源も落としてゴミコーナーに放り投げた。
 レイは詰め寄ってきた。
「なんでよ! 今の時代、みんなアプリで出会ってるのよ! 頭を柔らかくして、偏見を持たないで!」
「うるさいうるさい! マッチングアプリなんてものはなあ、人間をデータの集合に貶める悪魔の発明なんだよ!」
「なによ、わかりやすくていいじゃない。フリックするだけで、気に入った相手を選別できるのよ。あ、そうだ! 滝本さんのプロフィール、もっと細かく入力したいから、一緒に考えましょ」
 レイはちゃぶ台の半紙に墨と筆で俺のスペックを書き出していった。
「ええと、まずは滝本さんの年収ね。すごい! 今年はバイトを始めたから百万円を超えるじゃない! 身長も百六十センチ以上あるわよ! 高校も出てる!」
「くっ……ダメだ。こんなスペックではマッチングアプリではとても戦うことができない!」
 人間世界の事情に疎い脳内彼女に俺は説明してやった。
 確かに年収百万超は、俺の感覚ではかなり立派であると感じられる。だがこの金にうるさい人間社会では、年収百万では尊敬されないのだ。
 また俺は自分の身長がちょうどいいサイズ感であると思っている。だが一説によると、この身長の男には人権がないとされていた。
 また俺の人生で誇れる数少ないことの中には高校卒業がある。何年も登校して昼の三時過ぎまで椅子に座るという苦行を、弱冠十八歳の俺は見事にやり遂げたのだ。だが誰もそのことを褒めてくれない。
 それゆえ俺のスペックをマッチングアプリのプロフィールに書いてもそれは負け戦の始まりであり、むしろ俺の存在価値をただめちゃくちゃ毀損されるだけに終わるのだ。
「しかも俺は四十を超えてて頭も禿げてるんだ! このエイジズムとルッキズムに支配された悪の世界では、俺は戦う前から敗者なんだよ!」
「そ、そんな……だとしたら滝本さんはもう一生、恋愛ができないじゃない!」
「ああ、その通りだ! 恋愛なんてもういいんだよ……」
「た、たいへん! 恋愛から撤退した中年男性はすぐにセルフネグレクトに陥ってしまうらしいわよ!」
「別にいいんだ。レイ、お前がいてくれるから……いつの日かこのアパートの布団の染みになるまで、お前とこうして適当な話をしていられれば、それで俺は幸せなんだ……」
「その私のことも脳機能の衰えでだんだん見えなくなってくるじゃない。どうするのよ! このままではほんとにお先真っ暗よ!」
「た、確かにこれはちょっと洒落にならないな」
 一日ごとにテストステロン分泌量が減ってるのを感じる。男性ホルモンを失った俺は、肌と生活の潤いを失い、ただよぼよぼと衰えていく一方である。
 この右肩下がりの傾向をなんとかするには、やはりコンフォートゾーンを飛び出て、色恋という衝撃を俺の人生に呼び込むしかないというのか?
 だが絶対に、絶対に、マッチングアプリはやりたくない。それだけは嫌だ。
 マッチングアプリ、そんなものをやるのは人間としてのプライドを捨てることだ。そんなものは機械に支配されたIT人間のやることなんだ。俺はもっと人間らしいロマンチックな出会いを求めているんだ。
 となれば……。
「仕方ない。こうなったら封印を解くか」
「封印?」
「前もちらっと話したが……俺は何年か前、渋谷、横浜、新宿、有楽町などで道を歩く人に声をかけるという活動をしていた」
「ま、まさか……滝本さん、街でナンパをしていたっていうの?」
 レイの顔に驚きが浮かんだ。
 

 ゼロ年代初頭のオリジナル『超人計画』において、俺は『渋谷でナンパしよう』という計画を立てた。
 だが当時の俺は本気のひきこもり青年であり、そんな奴がどれだけ他者との自由な交流に憧れを持とうとも、それは少年が宇宙飛行士に憧れるような儚い夢に過ぎなかった。
 大気圏を突破して真の宇宙飛行士になるには、重力を振り切って飛ぶ強いロケットエンジンの開発が必要なのだ。
 この自意識という、他者との自由なコミュニケーションを阻害する重力を振り切る力が、オリジナル『超人計画』を書いていた当時の俺には欠けていた。
 だからオリジナル『超人計画』執筆時、俺はそれを強く望みながらも、どうしても渋谷で実際に見知らぬ人に声をかけることはできなかった。
 いや、そもそも渋谷に一人で行くことすらできなかった。あんな若者の街は人が多くて怖そうだったから……。
 だがその後、真剣に修行を続けて真の超人になった俺は、自らの自意識をも振り切るパワーを手に入れた。
 その無限の力を実証し、若かりし日の夢……渋谷でナンパするという夢を叶えるため、数年前の俺は単身、繁華街に赴いて道を歩く人に声をかける実践的なワークを始めた。
「まあ……いわゆるナンパとしてはぜんぜん結果を出すことができなかった。だが街という環境を利用して、自らの自意識を浄化し、対人関係のスタイルをアップデートする『フリーコミュニケーションワーク』を、俺は開発することができたんだ」
「なんだかよくわからないけど、とにかく滝本さん、あれだけやりたがっていた街でのナンパができるようになっていたのね! すごいわ!」
「ナンパじゃない。フリーコミュニケーションワークだ! 俺は今こそその封印を解く!」
「外に出るのはいいことよね。たまには街にいってらっしゃい」
「言われるまでもない、行ってくるぜ。街の女に声をかけて、テストステロンを高めてくるぜ!」
 俺は上着を羽織ると、今の自分の発言や行動がコンプライアンス的に大丈夫なのか気にしながら渋谷に向かった。

レイちゃんの知恵袋 その6
『友達を作る』

  さてさて、滝本さんは渋谷に向かっちゃいました。自宅待機の私は滝本さんの帰りを待ちながら、今回の知恵袋を書いていこうと思います。
 でもちょっと信じられませんね。二十年前は『ひきこもり作家』という肩書を前面に出して、繊細で弱い自分を売りにしていた滝本さんが、ちょっと見ないうちに本当に渋谷でナンパできるようになっているなんて、にわかには信じられません。
 滝本さん、本当は渋谷なんかに向かわず、近くのココカラファインで時間を潰しているのでは?
 LINEを送ってみます。
『滝本さん! 渋谷に着いたら写真を撮って送ってみて!』
 しばらく待っていると、ハチ公前で硬い表情で自撮りしている滝本さんの写真が送られてきました。
 どうやら渋谷まで出たのは本当のことのようです。
 だとしてもねえ。
 滝本さんにナンパなんてできるわけないんです。
 コンプライアンスに気をつけているつもりなのか、それとも照れ隠しなのか『フリーコミュニケーションワーク』なんていうよくわからない造語を使ってますが、滝本さんが渋谷でやろうとしているのは、いわゆるナンパであることに間違いありません。そしてその試みはどうせ失敗するに決まってるんです。
 なぜなら道を行く知らない人に声をかけるなんて、そんなこと滝本さんには絶対にできるわけないからです。それが気になる異性であればなおのことです。
 いいえ、滝本さんだけじゃありません。この洗練された現代では、社会の文脈にそぐわないコミュニケーションは誰もが忌避するものなんです。
 嘘だと思ったら想像してみてください。通りすがりの気になるあの子に声をかけられますか? 無理ですよね。
 無理でいいんですよ。そんなことする必要はありません。
 そんなことより大切なのは、身近な人との縁を大切にし、少しずつ友達の輪を広げていく、そういう地道な努力なんです。
 どこにでも人との縁はあります。
 コンビニで買い物するときも店員さんに「ありがとう」と言いましょう。できれば笑顔も見せましょう。
 Twitterや各種SNSでも心を込めていいねボタンを押し、丁寧に、優しい言葉でメッセージをやりとりしましょう。
 そうやって顔見知りや友達を、ゆっくり増やしていくのです。
 砂漠に植樹するように、豊かなコミュニケーションを身の回りに少しずつ増やしていけば、毎日はだんだん楽しくなりますよ!
 試してみてね!

(つづく)

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連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新

滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt

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