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第十三話 六本木に生きる 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」

老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊


  タワーマンション最上階近く、その見晴らし絶景な部屋で、俺はうどんを食っていた。
 窓の外には電子回路のごとき夜景が広がり、テーブルの隣には美女がいて、俺と同様にうどんを啜っている。
「一緒に作って食べると美味しいですね」
「あ、ああ……」
 どうやら気付かぬうちに、俺はこの世のすべてを手に入れていたらしい。
 超人になると、こういうことはよくある。
 なぜなら……超人の精神は人間を遥かに超えた巨大なもの、すなわちこの宇宙および、その基底としての『存在』そのものと一体化しているからである。そんな男の下には、望ましいものが大宇宙から次から次へと送られてくる。
 だがその一方で、俺の一般人間男性としての直感が告げている。
 すなわち……この世の中、そんなうまい話は転がっていない。この世のすべては等価交換によって成り立っている。無償なものなど、この世にはない。
「…………」
 タワマンで美女とうどんを食うというアクティビティに値を付けるとしたら、それは俺の支払い能力を遥かに超えて高額なものに違いない。
 金で対価が払えぬなら、なんらかの精神的な価値を提供するしかない。
 俺は割り箸をテーブルに置くと、カウンセリングモードに自らの意識を切り替え、傾聴の姿勢をとった。
「では……そろそろ話してもらおうか」
 さきほどレイから送られてきたテキストにもある通り、まっすぐ他人の物語に耳を傾けることは、他者への価値あるサービスとなる。
 それを提供することで、タワマン美女うどんへの対価とさせてもらいたい。
 青山も箸を置くと話し始めた。自分の人生の物語を。

 青山の話は意外に早く終わった。俺は丼を食洗機に突っ込むなど夜食の後片付けをしながら聞いた。
「つまり要約すると、青山さんは生まれながらに天才、いわゆる『ギフテッド』だったってことか?」
「ええ。自分で言うのも恥ずかしい話ですが。あ、洗剤はそこの戸棚です」
「IQが違いすぎて学校にも馴染めず、集団の中で生きていくことを諦めた青山さんは、十代のうちから自分一人で生きていくことを決意し、事業を起こして金を稼いだってことか?」
「ええ。最初はそんなに上手くいかず、三つ目に作ったアプリでようやく軌道に乗れました」
「その事業を売却して得た金をさらに運用することで、使いきれぬ額の金が今も増え続けている、と」
「私、結構お金を増やすのが得意みたいなんですよ。あまり使うのは得意じゃないんですけどね」
 洋服などにも興味はなく、本日のブルーノートでの出で立ちは、伊勢丹のパーソナルコンサルティングサービスを利用して、靴から服まで全部コーディネートしてもらったものだという。
「パーソナルカラーや骨格を診断してもらった上で、デパート中をぐるぐる巡って親身に選んでもらえるので、おしゃれが苦手そうな滝本さんにもおすすめですよ」
「使ってみたいが、今の俺の手持ちでは靴下一足くらいしか買えないからな……って、俺の話はいいよ、気持ちが暗くなる。それよりなんでそんな高い能力を持つ人間が、軽作業バイトなんかしてるんだ?」
 瞬間、青山はかつて見たことのない怒りの形相を浮かべた。
「滝本さん! あなた軽作業を馬鹿にしてるんですか!」
「え? いや、別にそういうわけでは……」
「ああいうエッセンシャルワーカーの方々がいるから、こういう贅沢な生活が成り立っているんですよ!」
 青山はラグジュアリーな室内と窓の外の光を手で示した。
「滝本さんがさっき食べたうどんだって、軽作業労働がなければ流通が滞って食べられないんですよ!」
「で、でも……明らかに能力の無駄遣いだろ。若くして事業を起こす力のある青山さんが、段ボールを右から左に運んだりするのは日本にとっての損失だろ。そんなことしてる暇があるなら、自分の能力を活かして働けよ」
「滝本さんだって倉庫で働いてるじゃないですか! それは私は素晴らしいことだと思いますよ。人間は自分の身を粉にして働かなきゃいけないんですよ。滝本さんは偉いですよ!」
「そ、そうか」俺は照れて頭をかいた。
「社会の底で皆の生活を支える仕事に従事している滝本さんのことは、本当に私、尊敬しています。ですから私、個人的にお礼をしたいんです」
「ああ、うどん、美味しかったぞ」
「ぜんぜん足りません。もっともっとお礼をしたいんです」
 俺は腹をさすった。
「まあもう一玉くらいならギリギリいけるかな」
「私……本当はお金持ちだったんです。騙してごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 そんなことをぶつぶつ呟きながら、青山はまたキッチンに立つと、本当にうどんをもう一玉、茹で始めた。
 しばらくしてテーブルに丼が置かれたので、ずるずるとうどんを啜っていると、青山は不安げな顔を向けてきた。
「許してくれますか?」
 わけのわからぬまま俺がうなずくと、青山はぱっと顔を輝かせ、ポケットから何かのキーを取り出しテーブルに置いた。
「だったら私のお礼、もっともっと受け取ってくださいね。まずはこれをどうぞ」
「これは?」
「合鍵です。住んでください。この部屋に」

  六本木ヒルズレジデンスから歩いて五分のところに、麻布十番という土地がある。俺の田舎者コンプレックスを刺激することにかけては、六本木に勝るとも劣らない地名である。
 だが麻布十番にはちょっと昭和のおもかげの残る商店街があったりして、意外にも居心地が良かった。
 夕食の買い出しに使うスーパーや、ほっとする味のサイフォン式コーヒーが飲める喫茶店など、いくつか行きつけの店もできた。
 スーパーには高額な自然食品が多く並び、喫茶店の『懐かしのナポリタン』は二千円近くする。それら俺の家計を一撃で破壊する高額商品を慎重に避けさえすれば、この六本木の地で生きていくことは可能に思えた。
 むろんサイフォン式コーヒーも六百円と高額であり、それは一杯でも俺の家計に極めて大きなインパクトをもたらす。だがヒルズレジデンスでの生活では食費を青山が出してくれることが多く、それによって浮いた金で、俺は贅沢にも一日一杯、コーヒーを飲んでしまうのだった。
 昨夜は江戸時代から続く更科そばの名店に連れていってもらった。金持ちであることを隠さなくなった青山は、ことさらに無駄な浪費をするということはなかったが、かといって出費を惜しむこともなく、連日のように俺に外食を与えた。
『どうせジャンクフードに汚染された俺の舌では、何を食ってもわからん。特にそばなんていう繊細な味のものは』
『いいから食べてみてください、このおそば』
『こっ、これは……白く輝くそばをたぐると、上品な香りと甘みがほのかに漂い、出汁の旨みが凝縮されたつゆと舌触りのよい麺が口の中でハーモニーを奏でる。たまらない美味しさじゃないか!』
『気に入ってもらえたみたいですね。もう一枚追加しちゃいましょう!』
 俺と青山は大食い競争のように更科そばを食べ続けた。
 夜、胃腸に大きな負担を抱えた俺たちは、リビングのソファで消化の時間を持った。
 なんとかそばが消化されたころ、青山はデパートでの搬入バイトに出かけていった。バイト後はヒルズレジデンスには戻らず、これまでと同様、下北沢近くのボロアパートで寝るという。
「…………」
 俺も夜にはバイトがあった。終電間際に川崎に向かい、いつもの夜の倉庫に向かった。
 明け方にバイトを終え、川崎のアパートで一眠りした俺は、『人間女性との持続的な交際のためのチェックリスト』をレイに繰り返し叩き込まれてから、昼過ぎに六本木に戻ってきた。
 ヒルズレジデンスのリビングで、ライフワークである音楽制作と小説執筆に勤しむ。
 気持ちが疲れてきたころに部屋を出て、麻布十番の喫茶店でコーヒーを飲みながらの執筆へと移行する。
「よし、今日はなかなか仕事が進んだな」
 日が暮れる頃には、ここ数年書き続けてきた長編小説の最終章が終わりそうになっていた。このまま最後まで書き続けるという選択肢もあったが、今夜は約束通り俺が青山に食事を振る舞いたい。
 執筆したテキストをクラウドサーバーに慎重に保存した俺は、喫茶店を出てスーパーに向かった。
「さてと、何を作るか」
 俺の創作料理は極貧の一人暮らしにチューニングされているため、大衆性に乏しい。そこで創造性には欠けるが、安定感のある鍋料理を作っていくことにする。
「鍋……その中でも特にシンプルなものの一つが『常夜鍋』だ。材料は生姜、にんにく、ほうれん草、薄切り豚肉と日本酒のみ」
 購入した食材をヒルズレジデンスの冷蔵庫に詰めていると、青山が帰ってきた。
「疲れました! 肩が凝ったんでジムに行きましょう!」
「ジム? あのイデオンにそっくりなやつか?」
「何をわけのわからないことを言ってるんですか! ちょっと汗かいてきましょうよ」
 青山に引っ張られて六本木ヒルズスパなる施設に向かう。
 その内部のジムをゲスト利用で俺が使えるよう青山が手配してくれたが、スパもジムも例によってラグジュアリーな空気が濃厚に漂っており、正直とてつもなく居心地が悪い。
 レンタルのジャージに袖を通してみたが、ここ数年、運動らしい運動をした記憶がないので体はたるみきっており、鏡に映る自分の姿が滑稽に見えてならない。
「ちょ、ちょっと疲れてきちゃったかな……俺は先に帰ろうかな」
「いま来たばかりじゃないですか! あっちですよ」
 青山はフリーウェイトコーナーなる、ダンベルやバーベルが積まれたラックが林立する空間に向かうと、そこのベンチに仰向けになった。
「私のフォーム、見てください」
 青山はバーを胸に引きつけ、それをゆっくりと押し上げる動作を繰り返した。ベンチプレスというやつか。
「…………」
 青山がバーを鳩尾みぞおちに引きつけるたび、ぴったりとした彼女のジャージの膨らみが強調され、俺の目を惹きつける。
 思わずごくりと生唾を飲み込みつつも、脳内でコンプライアンス警報が発せられるのを感じた俺は、なんとか視線を胸の膨らみから引き剥がし床に落とした。
「何よそ見してるんですか? 次は滝本さんの番ですよ。はい、ここに横になってください」
 俺が入れ替わりにベンチに仰向けになると、青山は左右に十キロのプレートを搭載したバーを俺に渡してきた。バー自体も二十キロの重みがあるらしい。
 想像を超えた重みに俺はパニックに陥った。
「ちょっ、待……」
 このままではバーによって首が潰され死ぬ。
「あはは。たった四十キロで何言ってるんですか。まずはフォームを覚えましょう」
 全力でバーをラックに戻そうとするが、青山が上からバーをじわじわと押してくる。胸に軽く触れたところで青山は力を抜いた。
「はい。ここから上げてみてください」
「う、うおお!」
 圧死の恐怖に押された俺は、思わず気合いの声を漏らしながら、ぷるぷると震える腕でバーを押し上げた。頭上の青山は微笑ましげに俺を見下ろし、見つめていた。

 「はあ……運動のあとのご飯は美味しいですね」
 常夜鍋を食べ尽くした青山は、ソファで俺にもたれかかってきた。
 ジムのあとで汗を流したスパ、そこに置かれていたボディソープの香りが俺をくすぐる。
 鍋に使った日本酒のアルコールが飛び切っていなかったらしく、青山の顔は赤く上気している。俺も酒には弱く、青山の体重を感じたまま、ソファにぐったりともたれて目を閉じていた。
 耳元で青山が囁く。
「どうです滝本さん。お金のある生活」
「ああ……悪くないな」
「でしょう。この生活が好きになったなら、お金持ちの私を許すって言ってください」
「別に、許すもなにも……」
「許してくれないんですか?」
「許す……お金持ちの青山さんを許す」
「じゃあその次に、私のことを好きになってください」
「好きというと……男女の恋愛的なことで?」
「そうです。好きになってみてください」
 互いに酒に酔っているためか、青山の口調が冗談めいたものだったからか、俺はさして抵抗を感じることなく言った。
「わかった。好きになった」
「どのくらい好きですか?」
「うーん。結婚したいくらいかな」
「いいですね。でも別に私は好きじゃないですよ。滝本さんのことなんて」
「普通にショックなんだが」
「死にたくなりましたか?」
「いや、そこまでショックじゃない」
「じゃあもっと私のこと好きになって」
「好きだ」
「でも私はぜんぜん滝本さんのこと好きじゃないですよ」
「はいはい、わかったわかった」
「本当にわかってるんですか? 私は滝本さんのこと、結構よくわかっているつもりですよ」
「なんだよ。俺の何がわかるっていうんだよ」
「滝本さんはもっと、まっすぐに自分を出してもいいですよ。周りの人が低く見えてるんでしょう? 小さい頃から」
「な、何を言ってるんだ。そんなことはないぞ。人間は皆、平等……」
「そんなわけないじゃないですか。頭の回転が何倍も違うし、見てる世界が違いすぎて誰とも話が合わないんでしょう?」
「…………」
「だからずっと自分を低める演技をしてきたんでしょう。馬鹿なふりをして、皆に話を合わせているんでしょう。まっすぐ自分の考えや興味を表現しても、誰にも理解されないから無意味だと思ってるんでしょう」
「…………」
「でも私の前では滝本さんはありのままでいいですよ。だって、私の方が何倍も滝本さんより頭いいですから」
「ほ、ほんとかよ」
「ほんとですよ。きっと滝本さんもギフテッドだったんですよね。大変でしたね。社会とずれちゃって。でも私の方がずっとギフテッドです。しかもその能力を、この若さで社会に適応させている、とても能力が高いギフテッドです。滝本さんより何倍も適応力があるし、何倍も滝本さんより賢いんです。だから安心して、ぜんぶ曝け出して見せてもいいですよ。私にだけは」
 青山は体を引くと、俺を受け止める体勢を取った。気がつくと俺は青山が引いた分だけ、彼女にのめり込むように体重をかけていた。
「超人なんて話も全部わかりますよ。どんな思想、どんな哲学、どんな宗教のどんな世界観をどうコラージュして、滝本さんの個人的な神話を形成していったのか」
「そ、そんな浅はかなものじゃない。ちょっと聞き齧っただけの君にわかるようなものじゃ」
「だったら教えてくれたらいいじゃないですか。どんなことだって受け入れますよ。どんなことでも、私は」
 いつしかソファで青山は仰向けになり、俺は彼女にのしかかっていた。
「青山さん……俺は、俺は……」
 これまで彼女に対し張り巡らせてきた心の防壁が、いつの間にか無力化されつつあった。その防壁の隙間から感じないようにしてきた気持ちが溢れ出した。
 強すぎて言葉にできない。俺はそれを行動によって彼女にぶつけようとした。
 そのとき床に転がっていた青山のスマホが鳴った。
「あ、バイトの時間ですね。ちょっと行ってきますね」
 青山は俺の腕からするりと抜け出すと、背を向けてジャージを羽織った。
 拒絶されたらしい。
 俺の全身から血の気が引いていく。
 だが青山は振り向いてこちらを見た。
「滝本さん、今夜はバイトはあるんですか?」
「い、いや……今日は休みだが」
「それならここで待っていてください。私、今夜はアパートじゃなくて、ここに帰ってきて、ここに泊まりますから」
「…………」
「さっき、私に何か言おうとしてましたよね。帰ってきたら聞かせてください、滝本さんの気持ち」
 俺は黙ってうなずいた。
 青山は軽作業用のカッターや軍手を鞄に入れ、さらにどこか別室に入ってゴソゴソと何かの物音を立ててから、玄関に向かった。
 見送りに立つ俺に彼女は言った。
「ところで滝本さん。言っておかなければならないことがあるんですけど……私のバイト中、絶対に、一番奥の部屋は開けないでくださいね」
「ん? 何があるんだ?」
「滝本さんには絶対に見せられないものです。見ないでくださいよ、絶対に」
「お、おい」
 青山はバイトに出ていった。

  俺の脳内はピンク色に染まっていた。
 ソファで青山に触れた感触がまだ手のひらに残っている。
『どんなことだって受け入れますよ』という青山の誘うような言葉が、繰り返し脳内にこだましている。
 しかもそのようなフィジカルレベルに響く刺激のみならず、青山は俺の心の鍵を開けるための適切なシグナルを、俺に深く打ち込んでいた。
 超人になるとは、通常の人間を遥かに超えた叡智をこの身に宿すことである。それは意識レベルを地上から、天で輝く星々の高さにまで引き上げるということである。
 だがそれは、エベレストの頂上よりも希薄な大気の中で、二十四時間、一人で孤独に過ごすということである。
 超人は、誰にも理解されぬまま、孤独を抱えて生きねばならない。その孤独の宿命には、もう慣れっこになっており、痛みなど感じないと思っていた。
 だが今、青山は俺をすべて理解した上で、俺を受け入れてくれるという。そんな人間は滅多に現れるものではない。
「そうだ……プロポーズしよう」
 俺はソファで貧乏ゆすりしながら、青山の帰りを今か今かと待った。
 しかし、深夜三時を回っても青山は帰ってこない。
 夜のバイトなんて危ないんじゃないのか?
 今になり青山のことが心配でならない。
 だいたい青山は美人なのだ。恋で俺の目が狂ってるだけかもしれないが、とにかく魅力的な女だ。そんな奴が肉体労働のバイトで男たちの群れに揉まれれば、一定の確率で成年向けの事象が発生する。
 そう……今ごろ青山は俺以外の汚らしい男たちと仲良くなっている可能性がある。
「いやいや、NTRコミックの読み過ぎだ」
 NTRとは寝取られの略であり、それは恋人を他の人間によって性的に掠取されることから生じる、不快でありながらも脳を強く痺れさせる刺激をメインテーマとした作品群に与えられる記号である。そんなコミック作品の広告が最近やけにSNSに流れてくるため、つい俺も何作品かNTRコミックを読み耽ってしまっていた。
 それによって汚染された脳が、俺にNTRの脅威を訴えてくる。
 いいや、まさかと頭を振るも、いつまで待っても青山は帰ってこない。深夜四時を回ったころに、俺の脳がさらなる脅威を訴え始めた。
「そもそもだ。未来にNTRが待ち受けているだけでなく、過去にすでにNTR的な事象が発生している可能性すらあるぞ」
 人は誰しも、一つや二つ、他人に言えない闇の過去を抱えている。現に青山も、俺に絶対に見せることのできないプライバシーを抱えていると明言していたではないか。
「…………」
 このマンションの一番奥、まだ俺が一度も足を踏み入れたことのない謎の部屋……そこに一体、何が隠されているというのか?
「ダメだ……そんなもの見ない方がいい。他人のプライバシーを勝手に覗くだなんて、そんなこと許されるわけがない」
 そう呟きながらも気づくと俺はソファから立ち上がり、廊下を一番奥まで歩くと、目の前の扉をおもむろに開けていた。
「…………」
 後ろ手で壁のスイッチを押すも、天井のライトは切れているのか明るくならない。
 俺は扉の隙間から差し込む弱く白々とした光を頼りに部屋に足を踏み入れると、その内部を見回した。
 四畳半くらいの物置を思わせる部屋だが、内部には一切の家具がない。いや、フローリングの上にポツンと、古いスマホと充電器が置かれている。
「なんだこれは。Dockコネクタか? ていうことは、これはまさかiPhone 4か?」
 かなり昔に青山が使っていたものらしい旧式のiPhoneを手に取った俺は、それを充電器に繋いだ。しばらくするとリンゴマークが輝き、昔懐かしいスキュアモーフィックデザインのiOSが表示された。
 震える指で写真アプリを起動する。
「よ、よかった……全写真、消去されてる」
 見たくないものを見ずに済んだ安堵で俺はどっとため息をついた。メールアプリの中も空で、ブラウザのブックマークも全消去されている。まるで初期化されたばかりのようにこのiPhoneの中身は綺麗に浄化されている。
「よかった……そうだ、過去のNTRなんて何もなかったんだ。認識できない過去は存在しないも同然なんだ。この宇宙は五秒前にできたばかりなんだ」
 極度の緊張から解放された安堵と共に、俺はiPhoneの電源を切ろうとした。
 だがそのとき、俺の視界に緑色のiMessageアプリが映った。そのアイコンをタップすると、青山と何者かの、数年に及ぶメッセージのやり取りの長大な履歴が表示された。
「…………」
 その何者かは、どうやら男のようだった。ついに俺は見たくない青山の過去を見つけてしまったらしい。
 俺の脳が壊れ始めた。
「そ、そうか。この時代、まだLINEはサービスが始まったばかりで、メッセージのやり取りといえばこのiMessageを使ったSMSやMMSが主流だったんだ」
 そんなテクノロジー的な呟きで心を落ち着かせようとするも、青山はこのアプリを通じて、どうやら父親などの親族ではない謎の男とのメッセージのやり取りを一日に何度も続けていたことが履歴から窺え、俺の心臓は落ち着くどころか早鐘を打ち始めた。
 折しも青山が女子高生、今流行りの言葉で言うところのJKであったころのことである。
 不登校気味の青山は、たまに登校した学校の教室の隅から、あるいは下校途中の河原から、この謎の男に心の救いを求めるメッセージを日に何度も送り続けていた。
 俺は脳の機能を全開にし、かつて北村で一番の天才と自負していた少年のころの情報処理能力をフルアクティベートすると、ブラーが生じるほどの高速の指の動きでiPhone画面を擦り、謎の男と青山の交流を捜査した。
「かはっ!」
 息を止めて最後までスクロールした瞬間、NTRの衝撃を前もって受け入れ、あらかじめ自死を選んでいた俺の脳細胞が復活を始め、それと同時に俺の呼吸が再開された。
「はあ、はあ……な、なかった! NTRはなかった!」
 謎の男と青山の関係は最後までプラトニックなままだった。遠隔的に仲良くなった謎の男と青山は、むかつくことに一度だけリアルで会ったようだが、そこで何かしらの要因によって気まずくなって、かえって距離が離れてしまい、その後、死ぬまで謎の男と青山は再会することはなかった。
「ん? 死ぬまで……?」
 俺の人知を超えた速読によって潜在意識下で処理されていた情報が、少しずつ俺の顕在意識上に浮かび上がってきた。
 俺はその『死』というキーワードを再度、通常のスピードで意識的に処理するため、謎の男と青山のメッセージのやりとりの最後の部分をゆっくりとスクロールして読んだ。
『青山さん。君なしで僕は生きていけません。死にます』
『いいですよ。死んでください』
『わかりました』
 そこで謎の男のメッセージは途絶えていた。
 いや、最後に一枚、平成のフィーチャーフォンで写したものらしき粒子の粗いJホラー的な画像が、青山のiPhoneに送られてきていた。
 その写真には、白いロープが写っていた。
 その荒縄は、樹海の如き、うっそうとしげる森の木の枝に結び付けられていた。
「うおっ!」
 気配を感じて振り返ると、廊下に青山が立っていた。
 彼女は扉の隙間から俺を無表情に見つめていた。
「見てしまったんですね。私の過去」
「…………」
「ええ。私は昔、人を殺したことがあるんです。どう思いますか?」
 NTRからサスペンスへと目まぐるしく変転するジャンルによって朦朧とする意識の中、ふいに俺のスマホが震えた。
 ポケットから取り出して見ると、そこには以下のテキストが表示されていた。 

レイちゃんの知恵袋 その13
『過去を手放す』

  滝本さんはいつも深夜、自分が過去に犯した過ちを思い出して、「うわーもうダメだ! 死にたい、死にたい、死ぬしかない!」と叫んでいますね?
 そんなときは急いで唱えてください。
「手放します」
「手放します」
「過去を無条件に手放します」
 この呪文を、心を空っぽにして唱えてください!
 もちろんこんなことを二度や三度唱えてみたところで、脳の配線が変わるわけはありません。
 未消化の感情と歪んだ思考回路が複雑にこんがらがってできている罪悪感や後悔や恥の記憶は、一朝一夕で消えるわけではありません。
 ですが焼け石に水をかけない限り、焼け石は熱いままなのです。
 罪や後悔を手放さぬ限り、それは心の中で熱を発して滝本さんを苦しめるのです。
 ですから手放しましょう。
 過去の自分の過ちを、レットイットゴーしちゃいましょう。
 たとえそれがどうしても絶対に許せない過去だとしても、ただひたすらに許し、手放してください。
 そのついでに、自分だけでなく、他人の過ちをも許してください。
 人と深く付き合うともなれば、その人のことを深く知り、そこにどうしても許せぬ何かを見つけることもあるでしょう。
 それをただ許してください。
 その能動的な許しと手放しによって滝本さんの心の中の古い回路は少しずつ柔らかくなり、若々しさを取り戻していくのです。
 古くなった皮を脱ぎ捨てる蛇のように、許せない過去を許し、手放し、どんどん忘れていきましょう!
 そうすればきっと生まれ変わった気分になって、辛い夜にも自他を労る強さが出てきますよ!

(つづく)

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連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新

滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt

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