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第八話 アプレンティスの来訪 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」

老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊


 終電を逃した絶望を抱えながら、俺は青山の背を追った。
 ジャージを着た大学生風の彼女は俺を先導し、道玄坂から文化村通りを無言で西方に歩いていく。
「…………」
 渋谷駅から遠ざかるごとに、歩道をすれ違う人の数は減った。夜の車道を流れるテールランプはシティポップのMVを思わせた。
「おい、どこに向かっているんだ?」
 俺は数歩前を歩くジャージに声をかけた。青山は足を止めた。
「だっ、だから家……家です! 私の! おかしいですか?」
「なんでいきなり俺を家に連れて行くんだ?」
「わかりません。とにかくお話を聞きたくて……お、おかしいですよね」
 コンビニ前で振り返った青山、彼女の髪には寝癖がついており、化粧っ気もない。
 一方、ジャージには気を遣っているようで、パールイズミというロゴが胸に輝いている。確かサイクルウェアのブランドだったか。体にぴったりとフィットしたその輪郭をコンビニの逆光に輝かせながら、青山はかすかに頬を赤らめているように見えた。
 バイトで数分話しただけの男を強引に自宅に連れて行こうとする自らの行動を、今になって恥じているのか。
「…………」
 俺もドキドキしてきた。
(いかん。このままでは自意識過剰な昔の自分に戻ってしまう。なんとか余裕ある大人の仮面を被るんだ)
 人はいくつもの社会的な仮面、ペルソナを被って生きている。俺は手持ちのペルソナの中で、最も健全なものを起動した。
(ペルソナー! 『講師』!)
 実は俺は、月に何回か専門学校で非常勤の講師として働いている。春と夏の長期休暇には、その副業収入がパタっと途絶えてしまう。それがここ最近の俺の絶望的な貧しさに繋がっていた。
 しかし今、経済的に助けてはくれなくとも、教壇で培った経験は俺を自意識過剰から救ってくれるはずだ。
「青山さん」
 俺は講師の目で青山を見た。
 すると彼女は、いつも俺が学校で相手にしている生徒と同じくらいの年齢だとわかった。そうとわかれば何も意識することはない。
「なんでしょうか?」
「行こうぜ」
「いいんですか?」
 なんにせよ終電はないしお金もないのだ。どこかに連れて行ってもらえなければ困る。俺がうなずくと、青山は西方に向けてまた夜道を歩き出した。

 青山の家は予想を遥かに超えた遠方にあった。
 駒場東大前を越えてもまだ歩き続ける青山に、俺は疲れきってこれ以上歩けない旨を伝えた。
「そ、そうですよね。私は数駅なら走って帰るんですが、普通は疲れちゃいますよね。もう電車もバスもないので……キックボードに乗りませんか?」
 青山は俺を電動キックボード乗り場に導くとスマホの画面を見せた。
「このアプリで乗れます」
「おっ、初回無料だと?」
 青山のスマホ画面に躍る『初回無料キャンペーン』の文字に活路を見出した俺は、さっそくそのアプリを自分のスマホにインストールし、年齢確認書類を登録して交通ルールテストを受け、六十分無料クーポンを得た。
 さらにアプリでキックボードの鍵を開け、ウィンカー、クラクション、ハンドルを確認し、スタンドを上げてボードに片足を乗せる。
 前方を確認すると、先に車道に乗り出した青山が、遠くで明滅する信号を指さしていた。
「行きましょう。この道をまっすぐです」
「お、おう」
 発車した青山を追って軽く地面を蹴り、助走をつけてからアクセルボタンを押すと、ぐぐっとキックボードは加速した。
 最大速度二十キロ。
 自転車で車道を走るのとそう変わらない速度ではあるが、地面との距離が近いためか予想以上の加速を感じる。
「おおっ、これは……」
 スリルあるアクティビティにより、脳内に多様な麻薬物質が溢れていく。
 昼間の活動では女性と触れ合うことにより、大量の男性ホルモンが分泌された。だが今の俺に真に必要だったのは、このようなスリルある肉体活動だったのかもしれない。
 ちなみに俺の人生の中で最もスリリングだった瞬間と言えば、フルコンタクト空手の試合である。俺は回想した。

『滝本君、次の試合出てみませんか?』
 ゼロ年代後半のある日、空手道場の先生が聞いた。俺は勢いを重視して答えた。
『出ます』
 その日から俺の熱いトレーニングが始まった。家の周りを走り回り、夜の公園でシャドー組手をし、立木を叩いては拳を痛める日々。
 だがどれだけプロテインを飲んでも筋肉がつかない。もともとひ弱な俺が普通のことをやっては強くなれないのだ。そこで俺は『ロシアンパワー養成法』なる本を読んで、ロシアの本場のサンボの力を自らに取り入れようとした。
 ケトルベルという持ち手が付いた鉄球を振り回し、チューブをぐいぐい引っ張り、持久力ある速筋を養っていく。
 食事も変えた。一般に筋肉を付けるにはタンパク質が大事と言われているが、ロシアンパワー養成法では、じゃがいもが大事とされている。
 半信半疑で大量のじゃがいもを基本とした食生活に切り替えたところ、それまで全く身につかなかった筋肉が俺の体に宿り始めた。道民であるためじゃがいもには親和性があったのかもしれない。気がつけば体脂肪率を一桁台のまま、体重を十キロ増やすことに成功していた。
 だがまだ足りない。そもそもの空手自体が下手なのだ。
 試合で勝つヴィジョンが全く見えない。そこで俺は、神秘の技を使う古流空手の達人のセミナーを受講した。
 俺は空手マスターの驚くべき秘技……時空と重力を自在に操る術をこの身で味わった。
 黒帯空手家たちの蹴りや突きを子供をあやすように跳ね返すマスター。俺を含む五十人のセミナー参加者に全力で押されてもたった一人でその群衆を押し返すマスター。俺は感銘を受けた。
『まじかよ! 物理法則はどうなってるんだ物理法則は!』
 後日、空手マスターが書いた本を読むと、物理法則そのものを空手の力で曲げているらしいことがわかった。俺は感銘を受けた。
『馬鹿な。それはもう「スター・ウォーズ」に出てくるジェダイの力、宇宙に満ちる不思議なフォースとかその類のものじゃないか!』
 感銘を受けた俺は、自らもその謎の力を得る決意を固めた。
 深遠なるインド哲学の経典である『ヨーガ・スートラ』にも、自らの心を統御することに熟達した達人、すなわちシッダは、シッディなる超能力を得ると書かれている。そう……人は何らかの手段で意識性を高めることにより、この世の物理法則を乗り越えられるのだ!
 試合直前、俺は三戦サンチンの型を深い瞑想とともに行い、大宇宙の力を用いて敵に打ち勝とうとした。俺は全身を殴打され、痣だらけになって一回戦で負けた。
「…………」
 苦い記憶を思い出していると、キックボードは下北沢近くの住宅街に着いた。

  青山はキックボードをステーションに返却すると、『青雲荘』と館銘板が貼られた集合住宅に俺を連れて行った。
「はい。ここが私のアパートです」
「こ、これは……」
 廃屋か、という言葉を俺はギリギリで飲み込んだ。
 外壁は蔦に覆われ、一階の窓がいくつも割れ、塀が内側にかしいでいる。
 あと数年もすれば自重で崩壊しそうだ。
「ここってまだ人が住めるところなのか?」
「何言ってるんですか! 現に私が住んでるじゃないですか! 私がこの手でバイトで家賃を稼いでいるんです」
 青山は誇らしげに胸を張った。
「それは……若いのに立派なことだな」
 こんなアパートに入ったら気が滅入りそうだ。自分の貧乏はまだネタとして楽しめないこともないが、若い女性の貧困を目の当たりにすると、国を憂う気分になってしまう。
 俺はスマホで近くのファミレスを検索した。

 ガストで俺の向かいのソファに座った青山は、財布の中を確認してから言った。
「なんでも食べていいですよ。今夜はデパートの催事場の設営で、結構いいバイト代もらえたんで」
「それは助かるが……」
 昭和の高度成長期に建てられたようなアパートに住んでいる女に奢らせるなど、人道にもとる行為に思われてならない。
「遠慮しないでください。無理を言って付いてきてもらったお詫びなので。それに……お願いがあるんです。滝本さんは超人なんですよね?」
「ま、まあな」
「だったら超人になるための方法を知っているんですよね?」
「一応な」
「それを教えてほしいんです、いますぐに! 私にもできるようわかりやすく! なんでも頼んでいいですから!」
 青山は注文用タブレットをグイグイと押し付けてきた。
「と、とりあえず、ここまでの出張費ということで、ドリンクバーだけ頂こう。それで青山さん……あんたはなんでそんなに超人になりたいんだ?」
 カロリーの高そうなジュース類をいくつかドリンクバーから汲んできた俺は、糖分を補給しながら聞いた。青山は野菜ジュースを飲みながら答えた。
「そんなことはわかるでしょう、滝本さんは超人なんですから。超人にはなりたいですよ、私だって」
 俺は曖昧にうなずきながら脳内の超人関連ワードをAIのように垂れ流した。
「ニーチェも言っている。超人は大地の意義……だから地球のためにも超人になっといた方がいい。それは確かだ」
「ですよね! 私、初めて希望を感じたんです! 超人というものがこの世にあると知って」
「…………」
「もしこの世に普通の人しかいなかったら、生きている意味はないですからね。言ってる意味、わかりますよね?」
「うーん……」
 判断が難しいところである。俺は独自配合した炭酸ジュースをストローですすりながら考えた。
 熱っぽく語る青山、彼女の中で何かの情熱が燃えているのは明らかだ。超人になるために、なにより大切なのは熱い情熱である。
 だがその情熱の少なくとも半分以上は、ポジティブなものであらねばならない。
 自らの特別性を求める中二病的な情熱や、他者への攻撃性を伴う情熱……そんなネガティブな動機から超人への道を歩き始めるなら、それは人格の劣化や崩壊といった恐るべき結果を招くだろう。
「悪いがまずはちょっとテストさせてもらうぞ」
「テスト、と言いますと?」
「車の免許を取るにもまず適性検査があるだろう。超人になるにも、ある程度の適性がないと闇落ちの危険がある。ちなみにこのテスト、受験料がかかる」
「いっ、いくらですか?」
「うーん、税込みで七百五十円くらいかな」
「払いますよ!」
「よし。ハンバーグで立て替えておこう」
 俺はタブレットを操作して、さきほどから気になっていたチーズINハンバーグを注文した。
 ロボットが食事を運んでくるまでの間、青山の人格チェックテストをする。
「では質問。杖をついた老婦人が車の通行量の多い横断歩道を渡ろうとしている。あんたはどうする? 三択で選んでくれ」
 
1.進んで老婦人の手を取り一緒に渡る。
2.気分によっては老婦人の手を引いて渡らないこともない。
3.老婦人の手を引いて渡り、途中で手を離して料金を請求する。
 
「なんですかこの選択肢は。こんなの『一緒に渡る』一択でしょう」
 俺はポケットから手帳を取り出してメモした。
『青山の属性=善』
「ふむ。歴史あるウィザードリィ式属性診断によれば、青山さんの性格は悪くないようだな。だがそれだけで超人になれるとは限らない。おっ、ハンバーグが来たな。うまいうまい。テストを続けるぞ」
「どうぞ。私、テストは得意なんで」
 俺は空になったハンバーグの鉄板をテーブルの端によけると、数式を手帳にメモして青山に渡した。
「解いてみてくれ。中学で習う1次関数だ」
「ばっ、馬鹿にしないでください! このぐらいわかりますよ。私をなんだと思ってるんですか!」
 青山はさらさらとペンを走らせた。
 なるほど、中学レベルの数学知識はあるらしい。
「だがこの次はどうかな?」
 俺は先日買った『小学校から高校までの数学やりなおしドリル』で得た知識を呼び起こし、高校レベルの問題を出題した。
「んん?」
 青山は眉根を寄せた。
「ははは、わからないか? これがわからないようでは超人になるのは難しいぞ。超人には高度な抽象的思考能力が求められるのだから」
「ちょっとこれ、問題がおかしくないですか?」
「え、本当か?」
 俺は手帳を覗き込んだ。確かに何かがおかしい気がするが、どこがおかしいのかは、コンビニで買った数学ドリルで得た知識ではよくわからなかった。
 俺は手帳を閉じた。
「まあいい。健全な批判能力もあるようで、それは望ましいことだ」
「いざ弟子にしてもらったらちゃんと服従しますよ」
「弟子ってそんな、時代錯誤な……」
「それだけ本気で超人になりたいんです、私は!」
「うーん……じゃあ次が最終テストだ。それに合格したら考えてみよう」
「なんですかその最終テストって。なんでも受けて立ちますよ」
「十円玉、三枚持ってないか?」
 青山は財布から硬貨を取り出した。
 俺は両手でその三十円を包むと、ジャラジャラと振った。
「よし。これを使って今から易占いをし、それによって青山さんを弟子とするかの最終テストとする」
「易ってあれですか。よく夜道に椅子とテーブルが置いてあって、そこでおじさんが箸のような長い棒を何本も使って運勢を占うという……」
「それだ。本来は天下国家に関する意思決定のツールなんだが、新たな超人の誕生はまさに国家レベルのインパクトをこの世界に与える。それゆえ易による占断はこの場に相応しい」
「なんだかドキドキしますね。でも十円ってちょっと笑っちゃいますね」
「ふん。伝統的なメドハギの茎による筮竹ぜいちくは無くとも、青山さんが超人となることを天が望んでいるのか判断するには十円玉で事足りる。行くぞ!」
 俺は手の中で三枚の十円玉をシェイクしてファミレスの机の上にバンと置いた。
「十円玉は、裏、裏、表。これは裏が多いから『陰』を表している」
 俺は手帳に、陰を意味する破線を書きこんだ。
 それからまた三枚の十円玉を振る。今度は表、表、裏が出た。
「これは表が多いから『陽』ってことですか?」
 俺はうなずくとさきほどの破線の上に、陽を表す実線を引いた。
 この作業をさらに四回繰り返した俺は、六つの陰陽からなる一つの卦を得た。
 その意味をスマホで調べる。
「これは……『蒙』の卦か。その卦辞は『童蒙、我に求む』、変爻である六五は『童蒙吉』」
「そ、それっていいんですか、悪いんですか!」
 青山はテーブルに身を乗り出して俺のスマホを覗き込んできた。
「ふむ、『童蒙』である青山さんが俺の弟子になることを求めている……そんな今の状態を、この卦は表しているようだな」
「童って、児童のことですか? 私そんなに若くないですよ!」
「まあ大雑把に若者ってことなんだろう」
「蒙って啓蒙の蒙ですか? これは私の頭がいいってことですよね?」
「いや、これは無知蒙昧の蒙だな。つまり『童蒙』ってのは経験の足りない無知な若者のことだ」
「なっ……なんなんですかこの占い。こんなのただの悪口じゃないですか! 返してください、その十円」
 青山はテーブルに並ぶ十円玉を回収すると、俺に疑わしげな目を向けてきた。
「だいたい占いなんてそんな非科学的な行為で私の適性を測ろうなんて、それが本当に超人のやることなんですか?」
「それに関しては間違いない。超人的な素養を持つアーティストは自らの無意識を探索するツールとして占いに手を染めがちだ。国語の教科書で有名なヘルマン・ヘッセは畢生の大作『ガラス玉遊戯』で、易と東洋哲学を大々的にフィーチャーした話を書いてノーベル文学賞を獲った。カルト映画で有名なアレハンドロ・ホドロフスキー監督はタロット占いのプロで、古のタロットを自らの手で復刻したほどだ」
 そう言えば友人の作家の乙一先生がホドロフスキー監督のファンで、いつだか俺の誕生日に『エル・トポ』のDVDをくれた。魔術的超人思想が塗り込められたその映画を観て感銘を受けた俺は、タロットの研究を始めた。
 人の無意識というものは、ある一定以上の深さにまで潜ると、言語や論理によっては測ることのできない、曰くいい難い混沌としたエネルギーの領域になってくる。その混沌に分け入り、何かしらの意義ある作業をそこで為すために、タロットに描かれた各種のシンボル体系は極めて大きな実用的価値を持っていた。
 また女性とお茶などする際、タロットは間を持たせるのに絶大な力を発揮する。
 俺は鞄に常備しているカードを取り出した。
「せっかくだからタロット占いもしてみようぜ。恋、仕事、学業の悩み、何でも占ってやるぞ」
「そんなのいりませんよ! 私はですね、とにかく一刻も早く超人になりたいんです! 弟子にしてくれるんですよね」
「うーん……」
「わ、私はこう見えても人を見る目はありますからね。常識もありますからね。こんなこと他の誰にも頼みませんよ。私はだいたい直感で、なんでもわかるんです。相手が自分にとってためになる人かどうか」
「直感が利くなら、自分が超人になる方法など俺に聞くまでもないだろう。書店に行って自分に合った本でも探して、得た知識を地道に実践すればいい」
「それはそうかもしれません。でも自分より経験のある人に直接お話を聞くのは大事だと思います。時間の短縮になりますからね。滝本さんの弟子になることで、三年から五年の時間短縮が見込める気がするんです」
「うーん……」
 俺は腕を組んで考え込んだ。
 青山さん。意外にしっかりとした考えを持っている人なのかもしれない。易の占いも彼女を弟子にすることを吉として推している気がする。
 だが……仮に俺が青山を弟子にするとして、それで俺に何の得があるというのだろう。
 俺とて社会人なんだ。
 ボランティアなんてやってる場合じゃないんだ。
「もちろんお礼もしますよ!」
「そっ、それならっ……こんなことを言ったら軽蔑されてしまうかもしれないが……」
「いいですよ。なんでも言ってみてください」
 俺はごくりと生唾を飲み込んでから要望を口にした。
「く、くれないか」
「何をですか?」
「お、お金……」
 さきほど気づいたのだが、渋谷からキックボードで数駅移動したため、帰りの運賃が完全に足りなくなっていた。
「いくら欲しいんですか?」
「とりあえずこのくらい……」
 俺は手を開いて五本の指を立てた。
 若者にお金をせがむのは年長者として大いに恥ずべきことである。だが五百円もあれば始発の電車でアパートに帰り、寝る前におにぎりの一個も食べることができるだろう。その豊かさを得るためなら軽蔑されても構わない。
 などと考えていると青山は財布から一万円札を五枚取り出して、テーブルに並べた。
「失礼しました。お金の話は私から切り出すべきでしたね。どうぞ、収めてください」
 俺は絶句した。
「足りませんか? 月謝ということで毎月払いますから、これでなんとか」
「…………」
 俺は青山の気が変わる前に五万円をいそいそとポケットに突っ込んだ。
 青山は笑顔を見せた。
「私、半年でなりたいんです。超人に。なれますよね?」
 なれない、と答えたいところだったが、そうすると返金を求められるかもしれない。
「……できるだけ短時間で超人になれるようセッションを組み立ててみよう」
「お願いします、滝本先生」
「じゃ、じゃあ今日はこんなところで……続きは次回のセッションで」
 その日時と場所を手早く決めた俺は、青山にもう帰るよう促した。
 ファミレスに一人で残り、ポケットから取り出した五万円をテーブルに広げて眺めていると、やがて窓の外の空が白み始めてきた。
 店を出た俺は、電車とバスを乗り継いでアパートに戻った。

 「おーいレイ、今帰ったぞー」
「滝本さん! 心配したのよ! 誘拐されたんじゃないかって」
 玄関でレイが俺の胸に飛びついてきた。徹夜で俺を待っていたのか目が充血している。
「すまん。でも『今夜は遅くなりそうだから先に寝ててくれ』って連絡したじゃないか」
「だって……渋谷で何か良くないことが起こったんじゃないかって、どうしても心配で……」
「良くないことどころか、すごくいいことがあったぞ。見ろ、この金を! 超人の力で稼いだんだ!」
 俺はレイの手を取ってコンビニに向かおうとした。
「これまで貧しい思いをさせてすまなかったな。なんでもうまいものを食わせてやるぞ」
 だが逆に腕を引っ張って止められる。
「なんだかよくわからないけど、とにかく臨時収入があったのね。だけどダメよ滝本さん! そんなときこそ平常心を保って! このお金は私が押し入れの奥に貯金しておきます。それに……はいこれ。寝る前にやって」
 レイは俺を居間に引っ張っていくと、半紙と筆を渡してきた。
「なんだ、こんなときに書道なんて地味なことやってられるかよ。前みたいにパーティしようぜ」
「いいから書いて。何か外でいい出会いがあったみたいだけど、そんなときだからこそよ。いいことがあったとき、人は浮足立ってしまうものだから。滝本さんは特にそうだから。ね?」
「……ちっ。わかったよ」
 俺は硯と半紙に向かった。
 先日ブックオフから新しく仕入れてきた『雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょ』という法帖を机に広げて臨書する。
 唐の二代皇帝の太宗が、三蔵法師の懇請に応えて自ら考えたというテキスト……中国土着の陰陽五行思想と、当時の先進思想である仏教が渾然一体と混じり合ったそれを黙々と書き写していく。
 すると女と金の刺激によって昂ぶっていた俺の心が、少しずつクールダウンしていった。
「その調子よ。続けて……ゆっくりと深呼吸しながら」
 しばらくレイは俺の横に座って筆の動きを眺めていたが、やがて自分もiMacに何かのテキストを打ち込み始めた。
 臨書を終えた俺がiMacのディスプレイを覗き込むと、そこには以下の文章が表示されていた。 

レイちゃんの知恵袋 その8
『習慣を育む』

 私は知っています。大金を得たとき滝本さんは、いつも気が大きくなって無駄遣いしてしまうんです。たまに外で人と会ったときも、テンションが高くなって、アパートに帰ってきてからピザを二枚頼む、Amazonで漫画を爆買いするなどの躁っぽい行動を取りがちです。
 もちろん、臨時収入を喜ぶのはいいことですけど、幸運を祝いながらもいつもの生活を変えずに守ってください。
 人生は、良いことと悪いことのアップダウンの繰り返しなんです。
 繰り返しやってくる良いことと悪いことのウェーブ。そんなものに一喜一憂して、自分も躁になったり鬱になったりしていたら、いつまで経っても心は穏やかになれません。
 ですから、外で生じる上下の波に揉まれながらも、生活のどこかに、いつもと変わらない安定した足場を保ってください。
 そのために、ぜひ皆さんも、毎日ほんの少しだけ時間を取って、そこでいつもと変わらない習慣を繰り返してみてくださいね。
 滝本さんみたいに書道などの趣味を習慣にするのはとてもいいことです。毎日、半紙一枚に何かの文字を書くだけで、心がすっと静かになります。
 おやすみ前にハーブティーを飲みながら日記を書くなんて習慣も素敵ですね。気持ちがクリアに整理されて、少しずつ人生の大きな目標が見えてきます。
 朝起きたら布団を畳むというささやかな習慣もおすすめです。その日一日のスタートを爽やかに始められること請け合いです。
 どれも生活の負担にならない小さな習慣ですが、一週間、二週間と繰り返すほどに力を持って、あなたの人生を安定させるペースメーカーになってくれます。
 ほら、見てください。星々は何があろうとずっと同じペースで空を巡って光っています。
 私達も、毎日の習慣を大切に育んで、自分のリズムを宇宙に刻んでいきましょう! 

(つづく)

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連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新

滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt

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