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第十一話 ブルーノートでデート 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」

老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊


 来週、俺は青山とデートする。
 その事実を認識するごとに自律神経が乱れ、呼吸が浅くなるのを感じた。
 俺は自分の神経に語りかけた。
(きこえますか? 俺の自律神経よ。若い娘とのデートに興奮する気持ちはわかる。だがすでに青山とは約束を取り付けてあるし、店にも席を予約してあるんだ。当日になるまで、俺がすべきことは何もない。だからどうか落ち着いてくれ)
 あはは、自分の体のパーツに話しかけるとは、なんという愚かな奴だろう。人はそう俺を笑うかもしれない。
 だが一寸の虫にも五分の魂があるのなら、俺の体の各パーツも何かしらの意識を持っているはずだ。だから俺の語りかけに応えてくれるはずだ。
 俺は自律神経への語りかけを続けた。
(おーい。マジでもう心臓をバクバクさせるのをやめてくれ。デートはまだ何日も先なんだ。今からこんなにドキドキしていたら、当日が来る前にドキドキパニックになっちゃうだろ。わかってくれ)
 ドキドキは止まらなかった。
 やはり自分の体への語りかけなどという非科学的な手法には、なんの意味もないということなのか。
(いや……もしかしたら逆なのか?)
 俺の潜在意識が、胸のドキドキというシグナルを通して、俺に何か大切なことを伝えようとしているのか?
 わかるべきなのは、むしろ俺の方だというのか?
 だが俺は何をわかればいいというのか。
 先ほど自律神経に向けて語った通り、デートのセッティングはすべて完了している。
「…………」
 俺はスマホのメモを開き、予約内容を確認した。
 そこには、シカゴを拠点に活躍する鬼才ドラマー、マカヤ・マクレイヴンの公演を確かに予約した記録が残されていた。
 ゆったりと隣に並んで座れるペアシートを予約したという記録もある。
 それによって一人当たり二千七百五十円の追加料金が発生するが、異性と並んで音楽鑑賞するという体験は何にも代え難い。
 食事のコースも予約した。アペタイザーは鶏胸肉と豚トロのテリーヌとバルサミコのヴィネグレット。メインは帆立貝のナージュ仕立て。デザートはクレームダンジュ。
 何ひとつ内容を想像できないが、必ずや美味しいに違いないそのコースは、一人当たり六千三百八十円の追加料金がかかった。
 だが異性と並んで音楽鑑賞しつつ食べるコース料理にはそれだけの価値がある。
 俺はアルコールに弱く、ビールをグラスに一杯も飲むと、その後で五時間ほどは地獄の苦しみを味わう体質だが、グラス・シャンパーニュも注文してしまった。
 ちびちび飲めば俺の肝臓がギリギリ頑張ってくれるはずだ。これは一人当たり二千六百四十円の追加料金がかかったが、酒は大人な雰囲気を味わうための必須アイテムである。外すことはできない。
「あら、すごいじゃない。これは女の子なら誰でもウットリしちゃうわよ」
 斜め後ろから俺のスマホを覗き込んでいたレイが、頬に手を当てて少女漫画のような反応を見せた。
「だろ? 俺だってな、ナイフとフォークの使い方ぐらいわかるんだ。いつも自宅でお好み焼きを焼いて食うときはナイフとフォークで食ってるからな」
「でも滝本さん、追加料金がすごいことになってるわよ……大丈夫なの、これ」
 振り返るとレイの顔が青ざめている。
「あ、安心しろ。俺には招待券があるんだ……」
「招待券があるからって、本当に全額無料になるものなの?」
「た、たぶんな……まあ念の為、電話して聞いてみるか」
 俺はブルーノート東京に電話をかけて招待券の効力について問い合わせてみた。
 結論としては、招待券は一万五千円分の効力があるものだったが、残りの二万六千百四十円は現金精算せねばならないとのことだった。
 電話を切った俺はガクガクと震え始めた。
「に、二万六千百四十円だと? そんなもの用意できるわけないじゃないか」
 どうやら俺の自律神経は、ドキドキという感覚を通じてこのことを教えようとしてくれていたらしい。
「なんでこんなに料理やらシャンパンやら追加しちゃったのよ!」
「だって青山と一緒に電話予約したから、どうしても見栄を張りたくて……」
「今からでも遅くないわ。キャンセルしましょう」
「そ、そんな恥ずかしいことできるわけないだろ!」
「見栄を張ってる場合じゃないでしょ! 現金を持たないまま当日になってノコノコ出かけて行ったら無銭飲食になって捕まっちゃうのよ!」
「ま、まあ待て。公演まで数日ある」
 俺は問題を先送りにしてその日は寝た。
 翌日、何かの不可思議な力によって問題が解決されていることを期待しながら起きたが、銀行口座は依然として空であった。
 ところで場の量子論によれば、真空には潜在的に無限のエネルギーが満ちているそうだ。
 同様に空っぽの俺の銀行口座も、潜在的に無限の豊かさで満ちていると考えられる。
 それを何らかの方法によって引き出せないか?
 俺はレイと共に駅前に向かい、宝くじ売り場で最高賞金一億円のスクラッチを買った。
 すべて外れた。
「貧すれば鈍するとはこのことか。俺としたことが、生殺与奪の権をこんなくじに託すとは、バカめ!」
 俺は駅前でだんだんと自分の太ももを叩きながら、次なる策を探った。
 どのようにすれば空っぽの俺の銀行口座に、金という豊かさのエネルギーを呼び込むことができるのか?
「仕方ない。こうなったらもう直接的な物乞いをしよう。『ウルティマ オンライン』で培った物乞いスキルを見せてやるぜ!」
 俺は深呼吸して残りわずかなプライドを捨てると、人が行き交う駅前の植え込みに座り、スマホに以下の文面を英語で打ち込んだ。
「英語版『NHKにようこそ!』の読者にお知らせいたします。現在、君たちが愛する『NHKにようこそ!』の原作者は金に困っています。それは君たちが『NHKにようこそ!』の海賊版PDFを読んでいることに起因しています。もちろん正規の本を買ってくれた数少ない方もいるでしょう。プレミアがついてとんでもない値段になっているペーパーバックの古本を買って読んだ方もいるでしょう。そういった誠実な読者には心からの感謝を捧げます。しかし私は知っています。ネットで『NHKにようこそ!』の英語版小説を検索すると、Googleの先頭に海賊版のPDFが出てくることを。私自身、英語学習のテキストとしてその海賊版PDFを使っています。しかしそれは原作者である私にのみ許されることであって、君たちに許されることではありません。それゆえ海賊版PDFを読んだ君は地獄に落ちるでしょう。ブッディズムによれば、盗人は死後、地獄で恐ろしい裁きに遭うとされています。そのカルマを浄化するために、原作者である私、タツヒコ・タキモトにPayPalを通じて募金してください。もちろん海賊版を読んでいない心正しいあなたからの募金もお待ちしております。できれば一人当たり、十ドルくらいお願いしたいです」
 この英文の最後に募金用リンクを張った俺は、理性が邪魔する前にそれをFacebookの『NHKにようこそ!』ファンページに投稿した。
 しばらくすると二百ドルほど募金が集まった。
「ええと……二百ドルってのはいくらになるんだ?」
 かたわらのレイがスマホの電卓を打った。
「凄いわ滝本さん! 三万円近くにもなるわよ!」
「そ、そうか……円安のおかげで外貨を稼ぐとめちゃめちゃ儲かるんだな! よし、このまま募金を続けていくぞ。俺の読者にも一人ぐらいアラブの富豪がいるだろ。そいつのオイルマネーで俺は生きていく!」
 そのためにさらに強く募金を訴える文を書きFacebookの『NHKにようこそ!』ファンページに投稿しようとしたとき、海外の読者からDMが届いた。
「なになに? 親愛なるタツヒコ・タキモトへ。あなたのファンページの投稿を見ました。お願いですから、貧乏くさい真似はやめてください。とても心が悲しくなります。あなたのような作家はそのようなことをすべきではありません……だと? なんだこのやろう、お前に俺の何がわかるってんだよ!」
 だが言われてみると、確かに今の俺の行動を見たら、世界の読者は悲しい気持ちになりそうだ。
 憧れの作家が生活に困窮し、こんなしょうもない金の無心を全世界に向けて発信するだなんて、この世はなんという夢も希望もない場所なのか、と俺の読者は生きることを悲観してしまうかもしれない。そうなると死人が出る。
「ちくしょうめ……まだまだ儲けられそうだが……仕方ない。一応、俺にも職業倫理はあるんだ。俺は夢を売る仕事なんだ。ファンに悲しい思いはさせたくない」
 俺は自宅アパートに帰宅しながら、泣く泣く募金ページを消去した。
「だがとにかくこれで当面の金の問題は解決だ。あとは当日を待つだけだな!」
「楽しみね、滝本さん。当日はおしゃれをしていってね」
「おお。俺なりに精一杯のおしゃれをしていくつもりだ。手持ちのシャツはどれも元の色が判別できなくなるまで色がせてるが色なんてどうでもいい。俺の部屋にはアイロンがないが、湯を沸かしたやかんの底を使えばアイロンの代用となる。何の問題もない」
「ズボンは何を穿いていくの?」
「いつものジーパンでいいだろ。裾がボロボロになっているが、ジーパンはボロいほどおしゃれだって、中学のころ誰かが教室で言ってるのを聞いたことがあるからな」
「完璧ね滝本さん! ……ってそんなわけないでしょ!」
 ばしーん。レイが俺の背を叩いた。
「うっ、何をするんだ」
「もうちょっとはおしゃれしていかなきゃダメよ!」
「なんでだ! ブルーノート東京のオフィシャルページのFAQには『ドレスコードはございません。お気軽にお越しください』って書いてあるだろ。だから別にヨレヨレのシャツでもいいんだよ!」
「よくないわよ! その回答には続きがあるでしょ。『公演/アーティストにあわせてお洒落もお楽しみいただきますと、よりブルーノート東京でのライヴを満喫いただけるかと存じます』って! 滝本さんのヨレヨレのシャツがフィットする公演/アーティストなんてこの世に存在してないわよ!」
「だったら何を着ていけばいいって言うんだ? 言っとくけどな、新しい服を買う余裕なんてこれっぽっちもないからな!」
 そう叫ぶ俺を尻目にレイはクローゼットに顔を突っ込んで奥をゴソゴソと探り、何かを引っ張り出した。
「げほっ、げほっ、なんだこれ。埃まみれじゃないか」
「スーツよ。これを着て行ってらっしゃい」
 レイは埃まみれのカビ臭いスーツを俺に押し付けてきた。
 瞬間、俺の脳裏にこのスーツに初めて袖を通した日の記憶が蘇った。
 あれは二十一世紀が始まった直後のこと。霞がかかったように曖昧な記憶ではあるが、うっすらと思い出せる。
 そう……あの年、俺は『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』という作品で、角川学園小説大賞の特別賞を受賞した。
 都心にある巨大なホテルでの授賞式に出席した俺は、そのあとの新年会で、他の受賞者と共に、錚々たる先輩クリエイターの皆様に挨拶させていただいた。
 そこにはなんとあの機動戦士ガンダムの富野由悠季監督もおり、ありがたくも二言三言、お話させていただいた気がする。
 監督はおっしゃられた。
「君たち、今は若いけどすぐに歳をとるからね。油断してたらダメだよ」
 曖昧な記憶ではあるが、そんな内容のことを富野監督は我々受賞者に告げた気がする。
 そのとき授賞式直後で舞い上がっていた俺は、富野監督の言葉に冷や水を浴びせられた気持ちになった。受賞直後の若者には、もうちょっと優しい言葉をかけてもいいのではないだろうか?
 何言ってんだこの人。
 俺には関係ねえ。
 だが富野監督が忠告してくださった通り、確かにあっという間に時間は流れ、あのとき二十代前半だった俺はもう四十代半ばだ。
 通常であれば家庭があって、家があって、車があって、子供がいてしかるべき歳だが、俺にはそういったものは何もない。
 もしあのときの俺が富野監督の忠告を真剣に捉え、もっと時間を大切に生きていたなら、今とは違う人生を過ごせていたのだろうか?
 家庭……車……そういったものを俺も手にすることができていたというのか?
「いや……」
 富野監督はそういった地球の重力に引っ張られたようなことじゃなくて、もっと高遠なことを俺ら受賞者に伝えようとしていたのではないか?
 つまりときの海を越えて、光に任せて飛んでみろということを伝えたかったのではないか?
 そうだ……我々クリエイターは、ぼんやりと生きることなく、一生懸命に働きながら、心の光を世界の人に見せなければならないのだ。
「…………」
 そんなことを思い出しつつ、俺はカビ臭いスーツ……あの授賞式に着ていった俺の一張羅に袖を通した。瞬間、そこに残ったわずかな若さが俺の中に蘇るのを感じた。
「あら、似合うじゃない滝本さん。ちょっとお腹が苦しそうだけど」
「ふん。これで今度こそ、デートに向けてのあらゆる問題が解決されたってわけだな。よし、これで行ってくるぜ!」

「うっ、苦しい……」
 表参道駅の改札を出た俺を、突如、苦しさが襲った。
 四十代になると、体にいろいろな問題が出てくるらしい。
 まさかその『問題』がこのタイミングになって襲ってきたというのか?
 俺は駅舎の壁に手をついて目を閉じ、おのが肉体を内観した。
「手足、OK。肝臓、膵臓、脾臓に異常なし……」
 五臓六腑のコンディションには特に問題はないようだ。心拍は乱れているが、Apple Watchに通知が来るほどでもない。
「となると、この苦しさは心因性のものか。ははは、それもそうだな……」
 まずこの表参道という土地そのものが、俺にとってはデバフ効果を持っている。
 まさか、地形にバフ効果も、デバフ効果もあるわけないだろ。この現実世界はシミュレーションRPGの名作、『タクティクスオウガ』じゃないんだ!
 そんな意見もある。
 しかし事実、『表参道』はその文字だけで俺の精神を削ってくる。
 俺のような川崎の工業地帯で生きている男が来てはいけない土地に思えてならない。
 つまり、心に邪念多く、何かしら低級霊のごとき存在に取り憑かれている者が、寺院という聖域を恐れるのと同様、俺という貧乏生活を送っている者にとって表参道はそこに立っているだけでHPが奪われていくフィールドなのである。
 だがそうとわかれば、そのデバフに甘んじるつもりはない。
「ふんっ……!」
 俺は空手修行時代に学んだ呼吸法を用い、裂帛れっぱくの気合いを臍下せいか丹田、すなわち人間の肉体的な安定性を司る三つのエネルギーセンターである、ムーラダーラ、スワディシュターナ、マニプラの各チャクラにチャージした。
 わずかに地に足がついた気がしたので、そのままGoogle マップの案内に従ってブルーノートに向かう。
 根津美術館前の交差点で信号が変わるのを待っていると、後ろから肩を叩かれた。
 振り向くと青山が立っていた。
「おっ……いつからそこに」
「駅を出たら前を滝本さんが歩いてたんで、いつ気づくかなと思いながらずっと尾行してましたよ。いつまでも気づかれないんで飽きちゃいましたけど」
「ていうか……その服、どうしたんだ? 今日はジャージじゃないのか?」
「ジャージなわけないじゃないですか! 私だってたまにはおしゃれぐらいしますよ」
 俺はファッションに関する知識がほとんどない。だから青山の服装がいつもとは違っていることはわかった。だがその変化がどれほど大きなものかは判別できなかった。
 彼女のシルクのブラウスが柔らかく光っていて、なんだか特別なものに見える。裾に何か繊細な模様が刺繍されていたが、それが何を意味しているのかはさっぱりわからない。
 ジャージの代わりに穿いているスカートの布は色が深く、高そうな雰囲気を漂わせている。
 靴は光沢があり、ステップを踏むように横断歩道を渡るたびキラキラと輝いていた。
 その歩き方が、いつもより少しだけ自信に満ちているように見えたが、それはその美しい靴のせいなのだろうか。
 彼女の隣に並ぶと耳で小さく輝く何かが揺れていて、手首に薄い金色の何かが見えた。
 ときおり振り向いたり、手を動かしたりするごとに、日が暮れつつある歩道に小さなきらめきが軌跡を描いた。
 彼女の顔もいつもと違っていた。化粧をしているのは明らかで、なんとなく顔が明るく見えた。目も大きく見えるし、唇は艶やかで、頬には自然な赤みがさしていた。
 全体的に、青山がとてもきれいで、何か高級なものを身につけているようには見えたが、その詳細はわからなかった。
 ただ、いつもとは違う夜のために、彼女なりにとても気を遣って準備をしてきたことは、はっきりと伝わってきた。頭がくらくらしてきた。
「…………」
 やがてたどり着いたブルーノートの入り口に、今日の公演のスケジュールが貼ってあったので、集まりつつある他の客と同様に、それを写真に撮ってから入り口のドアを開ける。
 目の前に現れた階段を囲む壁一面に、ジャズの巨匠のポートレートらしき写真が巨大なタイル状に並んでいるが、彼らの表情からは威圧感よりも音楽の喜びが伝わってくる。
 階段を降りてエントランスで受付をし、さらに階段を降りると、そこが会場だ。柔らかい笑顔をたたえながらも背筋がぴんと伸びた店員さんに、予約した席まで案内してもらった。
 ステージがよく見える横並びのソファ席だ。
 隣席と近いので、必然的にかなり詰めて座らなければならない。先に座った青山の隣に腰を下ろすと、数センチの空気を通じて体温が伝わってきた。
 前菜とシャンパンが運ばれてきて、青山と軽くグラスを触れ合わせた俺は、頭のくらくらがマックスに高まっているのを感じた。ちらりとApple Watchを見ると、心拍数が早くも危険なレベルに高まっていた。
 来たことのない高級ジャズクラブで、美しい異性とデートしている……このままでは強すぎる刺激で頭がおかしくなる。
 俺は平常心を取り戻すため、自分の得意とする領域についての会話を展開した。
「なあ青山さん。『アセンション』って知ってるか?」
「あれですよね。2012年にマヤ暦が終わって地球と人類がすごいことになるという。私が小学生のころ、友達が目を輝かせて言ってました」
「確かに、アセンションは『次元上昇』という意味を持つスピリチュアル用語でもある。だがそれは同時にジャズ用語でもあり、これから始まるマカヤ・マクレイヴンの音楽に密接に関係しているんだ」
 俺はグラスを傾けながら、前もって調べておいた予備知識を再生した。
「マクレイヴンの父は、なんとあのジョン・コルトレーンと共に、『アセンション』というスピリチュアル・ジャズの名盤を生み出したアーチー・シェップのバンドメンバーだったんだよ」
「情報量が多過ぎてちょっと……スピリチュアル・ジャズってなんなんですか?」
「俺にもよくわからん。とにかくそういうジャズの一派があるらしい」
「ははは……なんだかキラキラーってしてそうな一派ですね」
「青山さんも、今日はなんだかキラキラしてて綺麗じゃないか」
「ふ、普通ですよ、別に……」
 顔を赤らめた青山は、いつもの調子を取り戻そうとするかのように話題を前に戻した。
「それより『アセンション』の話をしてください。それは超人と何か関係があるんですか?」
「大ありだ。まず超人の俺が持っている音楽制作用シンセサイザー・プラグインの一つに『アセンション』ってものがあってな。予想通りキラキラした音が鳴らせる」
「…………」
 青山がつまらなそうな顔を見せたので、話を無駄に脇道に逸らすのをやめ、いわゆるスピリチュアル用語としてのアセンションについて俺は語ろうとした。
 しかしその単語は先ほど青山が言った通り、2012年に瞬間最大風速を叩き出した一種の流行語であり、それを今口に出して語るのは少し気恥ずかしいものがあった。
 そこで俺は自分の生業の一つである小説と絡めてアセンションについて語った。
「アセンション、それは次元上昇だ。それは個人的なものと、集団的なものの二つに大きく分類できる。古来、SF小説では集団的なアセンションを語ることが多かった。SFの金字塔、『幼年期の終わり』では、人類が超人類へと進化して、宇宙を司る巨大な意志、オーバーマインドに統合されていく模様が語られる。その『幼年期の終わり』をバイオテクノロジー的な観点から語り直したかのごとき作品、『ブラッド・ミュージック』では、人類が細胞融合によって一つに溶けて融合し、超意識を獲得する模様が描かれる。そのブラッド・ミュージック的想像力を日本アニメに輸入したのが『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画である。その計画の中で人類は身も心も一つに溶ける。それはとても気持ちいいらしい」
「すごい溶けるんですね。それがアセンションってことなんですね」
「まあそんなところだ。ちなみに溶けると、いろいろな利点がある。一つがテレパシーだ」
「テレパシー、なんだかときめきますね」
 などと取り留めないことを喋っていると、本日のディナーコースの一品目、鶏胸肉と豚トロのテリーヌとバルサミコのヴィネグレットが運ばれてきた。それは何らかの手法によって四角く固めた肉に、何らかのソースがかけられたもののようである。
 俺はフォークとナイフを慎重に操作して、テリーヌを切り分けて口に運んだ。
「な、なんだこれは。うまい! うまい!」
「おいしいですね! 私、テリーヌ好きかもです」
 青山と深く頷き合ったそのとき、マカヤ・マクレイヴンとそのバンドがステージに姿を現し、演奏を始めた。大音量でありながらまったくうるさくない音が俺を打つ。
 その圧に陶酔しながらも、俺は先ほどの話題の続きを青山に告げる必要性を感じた。
 なぜならばアセンション、それこそが超人計画の中核であり、ここしばらく青山に続けている講義で伝えたい核心情報だったからである。
 それを今、青山の方から聞いてきたということは、今、彼女の心にこの情報を受け取る準備ができたと考えていいであろう。
 情報とは受け取り手が心を開いて初めて伝えることができる。
 パチンコのチューリップのごとく青山のハートが完全に開いたこの瞬間、俺は超人とアセンションにまつわる情報の全てを、彼女に伝達、トランスミッションしてしまいたかった。
 だがそれはもはや俺の声というメディアによって伝えることは叶わない。
 なぜならこのブルーノートは、マカヤ・マクレイヴンが放ち続けるドラムのパルスによって支配されているからである。ふと身をよじれば肌が触れ合う距離ではあるが、もう俺の声は隣の人間に届かない。
 だがそれは好都合でもある。今、会場の人々の心は、音楽のビートとグルーヴによって一つになっている。それは人類補完計画が、簡易的な形ではあるがこの会場を一つにし、我々の心を一つにまとめていることを意味している。
 今なら俺のテレパシーも機能するはずだ。
(きこえますか? きこえますか? 今、あなたの心に直接話しかけています)
 このようにテレパシーで呼びかけてから、そっと隣席の女性を見る。
 目が合った。
 音と酒に酔ったのか頬を紅潮させ、目を潤ませている青山は、俺に向かって微笑み、軽く頷いた。
 これはもう完全にテレパシーが通じているという判断でいいだろう。
 俺は超人計画の核心について、青山にテレパシーによってのトランスミッションを始めた。
 超人計画とは、まず俺が個人的にアセンションすることである。
 長年、低空飛行で鬱気味の生活、つまり下向きのディセンションな生活を送っていた俺は、いわば跳躍のための力をぐっと溜めていたのである。
 その力をもってして、高く飛び上がり、アセンションすれば、心はこの三次元空間を超え、四次元を超え、五次元をも超え、あの銀河コアのある七次元あたりの高みにまで上昇することができる。
 因果を超えたその虚無の地平から発せられる意思によって、俺はあらゆる願いを叶えることができる。
 俺の最初の願いは千年、生きることだ。
 千年、生きて、プレステ200で遊ぶ。
 必ず。
 だがそのような個人的な欲望は、この俺の超人計画の一面を表しているに過ぎない。
 俺の超人計画の真の核心、それは、人類全体をアセンションさせ、超人化させることである。種としてのアセンション、それこそが超人計画の核心なのだ。
 だがそれは一歩一歩、少しずつ進めていかなくてはならない。なぜなら人類はまだそのことを恐れているからである。
 その証拠に、人類の無意識を鏡のように反映したSF小説では、繰り返しアセンションへの恐怖と嫌悪が語られてきた。
 この次元を超えて、ワンネスと融合した存在は、人間味を失った気持ち悪いモンスターへと変貌してしまう、そんなことが繰り返し、繰り返し、飽きるほど物語の中で語られてきた。
 だがちょっと待ってほしい。
 この俺を見てほしい。
 すでに俺は、『幼年期の終わり』で語られた超人類よりも高い意識レベルにまで進化している。なぜなら俺は意識の高い超人だからだ。
 それに俺は、『ブラッド・ミュージック』や、エヴァの『人類補完計画』で描かれた統一意識よりもさらに広大な意識にアクセスしており、それに半ば融合している。なぜなら俺は広く高く美しい精神を持つ超人だからだ。
 しかしそれでいて、俺は人間味を失った気持ち悪いモンスターに変貌していない。
 むしろ俺という存在のキモさは少しずつ減じており、その代わりに爽やかさが増えている。
 この前、スタバに行った時も、以前のように挙動不審に口籠ることなく、爽やかな笑顔と共に店員さんにアイスコーヒーを頼めた。
 むろんそうは言っても、人間が『完成』に至ることなど永久にない。
 それゆえ俺は今もいくらかはキモい存在ではあるだろう。それは認めよう。
 だがそんなにはキモくないはずだ。
 俺なりに身だしなみにも気をつけてるからな。このスーツも、決してこの高級ジャズクラブで浮いてないはずだ。
 たぶん……。
 大丈夫だよな……?
 などと考えていると、自意識過剰からワンネスとのシンクロ率が薄れ、テレパシーが弱まってきた。
 俺はもう一度、意識を適切な状態にセッティングしなおすため、マカヤ・マクレイヴンの音楽に耳を澄ませた。
 それはめちゃめちゃ複雑なリズムでありながら、自然にノレる音楽だ。細かく刻まれるビートの背後に、巨大な山のごとき堅牢なグルーヴがある。
 どんな魔術的な作用によってこの音楽が構築されているのか不思議に思ったが、あらゆるアートを生み出すのはアーティストの意図であり、不断の努力と試行錯誤である。
 そのような人間の意志の結晶のごとき尊い音楽を、こんなゆったりと気持ちのいいテーブルで、美女と一緒に飯を食いながら味わえるとは、なんていう贅沢だろう。
 ローマ貴族でもこんな贅沢は味わったことがないだろう。
 この幸福、この豊かさ、そしてこの陶酔……俺は青山と目を合わせ、うっとりとしたこの感覚に意識をチューニングすると、またワンネスへと気持ちを拡大させた。
 そしてその中で隣の青山とつながり、さらには遠い未来の青山とつながった。
 未来のある一地点でアセンションを終えて超人と化し、究極進化を果たしている青山の、その美しく巨大な精神を、今このブルーノート東京のペアシートで、音に合わせて小さく体を震わせている若者の脳に接続した。
 勝手に他人にこのような超人化の儀式を施していいのか、いくらかの倫理的な迷いはあった。
 だがすでに青山からは五万円と共に、『超人になりたい』という意思を口頭で受け取っている。それゆえコンプライアンスには違反していないだろう。
 曲の合間にテーブルに置かれたメインディッシュと、その後の甘いデザートを慎重にナイフとフォークで口に運びながら、さらに俺は青山にテレパシーで伝えた。
 超人となるための非言語的な情報と、重力を振り切って超えて飛び上がり、高くアセンションするためのエネルギーを、俺は時間いっぱいトランスミッションした。
 その目に見えない情報は音楽と親和性が高く、それはするすると青山の心に、水が砂に染み込むように吸収され受容されていった。

 ライブが終わった。
 ブルーノートを出た俺と青山は、駅前のルノアールに向かい、そこでさきほど見たものと聴いたもの、ライブの感想を興奮のままに伝え合った。
 それを一言でまとめると、『マカヤ・マクレイヴンはすごい』というものであった。
 コーヒーのあとに無料で出てきたお茶を一口飲んだあたりで、やっとライブの興奮が収まってきた。
 すると今度は、目の前にいる美女に対する動物的な興奮が、俺の中にふつふつと湧き上がってきた。
(これはよくないな。キモいところを見せる前に、今日はさっさと帰ろう。終電も近くなってきたしな)
 俺は椅子から腰を浮かせた。
 そのとき青山が正面から俺をじっと見つめてきた。
 顔を逸らそうとするが、その瞳に惹きつけられて目を離せない。
「ところで滝本さん」
「……ん」
「このあと、私の家、来ませんか?」
 どくんどくんと俺の心臓が強く脈を打ち始めるのと同時にスマホが震え、レイから以下のテキストが送られてきた。
 
レイちゃんの知恵袋 その11
『飛び込んでみる』
 
 お昼ご飯を選ぶとき、二つの選択肢があるとします。
 一つは通い慣れた街の定食屋さん。
 そこでいつもの定食を食べることができます。リーズナブルだし、味には不満はありません。ここに入ると百パーセント、まず間違いのないお昼ご飯をいただくことができます。
 もう一つは、新しくできた謎のレストラン。
 謎のレストランには、ゲーミングカラーの暖簾のれんがかかっており、わずかに開いたドアの隙間からは、紫色の光と、不思議な香りの煙が漏れ出しています。
 そもそも本当にそれはレストランなのでしょうか? 前提さえ疑わしくなる怪しいお店ですが、ちょっと心惹かれている自分がいます。
 こんな二つの選択肢が与えられたとき、あなたはどうしますか?
 いつもの定食屋さんで、いつもの定食を食べることは何も間違っていません。人間、ルーティーンを繰り返すことも、ときには大事です。
 人間はいつもの慣れた行動を繰り返すことで、自分の心を安定させることができるのですから。
 でも人間、安心安全の行動ばかりしていたらダメです。人間、たまには怪しいところに飛び込んでいかなきゃダメです。
 だから滝本さん、迷ったら前に進んでください。
 選択肢が二つあって、慣れてるものと、怪しくて危険そうだけど心惹かれるものがあったら、後者の方に向かってください。
 少なくとも、一週間に一回は、リスクをとってください。
 やったことがないことをやって、人生を広げてください。
 そこにたくさんの宝物があります。
 まだ見つけていないその宝物を探しに行って、それを両手いっぱいに受け取ってください。
 だって、人生はあなたが冒険して楽しむためにあるんですから。あなたが受け取るべき、たくさんのいいものが、まだまだ無限に隠されているんですから!
 勇気を出して、入ったことのないお店に入ってみて、そこで『謎定食』を食べてみましょう。
 きっと美味しいですよ!

(つづく)

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連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新

滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt

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