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第十話 豊かさの引き寄せ 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」

老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊


「青山さん、いわゆる『引き寄せの法則』ってのを知ってるか?」
 俺は前回と同じルノアールで、青山相手に講義していた。今日は『超人の力で金を引き寄せる具体的手法』がテーマだ。
「知ってますよ! 長財布を使えばお金が儲かるって話ですよね。お札は窮屈に折り畳まれるよりも、まっすぐな長財布に入れられる方が好きで、だから長財布ユーザーに引き寄せられてくるという。バカらしくて笑っちゃいますよね」
「い、いや、そんなジェームズ・フレイザーの『金枝篇』に書かれているような、未開の部族がやりがちな類感呪術めいたものじゃなくて……」
「私は今の時代、財布はコンパクトな方がスマートだと思うんですよ。見てください、これ」
 青山はジャージのポケットから名刺サイズの物体を取り出した。
「なんだこれ。折り畳んだ段ボールか?」
「段ボール財布です。このチェックの柄の段ボール、見つけるのに苦労しましたよ。遠くのスーパーまで探しに行って、やっと見つけてもらってきましたからね」
「よくできているじゃないか。どうやって作ったんだ?」
「作り方が載っている雑誌を読んだんです。あとで滝本さんに雑誌あげますよ」
 俺は曖昧にうなずきながら、そもそも自分が何を話そうとしていたのか思い出そうとした。
「そうそう……『引き寄せの法則』の話だ」
「そんなことより滝本さん。『超人の力を使って豊かさを無からジェネレートする』って話はどうなったんですか? もうすぐ約束の半月が経ちますよ」
「だから今その話をしようとしてるんじゃないか! 聞いてくれ……自分に都合のいい事物をシンクロニシティによって引き寄せる力は、超人が扱える多種多様な力の一部に過ぎない。すなわち『引き寄せの法則』などというものは、超人が持つ力の一側面を粗雑に表現した言葉に過ぎないというわけだ」
「滝本さん、本当に大丈夫なんですか? あと一週間でどうやって豊かになるつもりなんですか?」
 青山はニヤニヤと意地の悪い笑みを向けてきた。今日で会うのが四度目ということで、少しずつ猫被りが解けてきたのか、性格の悪い部分が表に出てきている。
 それを俺への信頼と受け止めることもできるが、今は普通に強いプレッシャーとして作用していた。
 ここで俺が超人の力をフィジカルレベルに作用させ、なんらかの豊かさを生み出し、それを青山に示すことができねば、俺は師としての尊敬を失ってしまう。
 それは次回の月謝である五万円の喪失を意味し、それはまた俺が十円二十円にもこと欠く極貧生活に逆戻りすることを意味している。
 何としても避けたい。
 だいたい何かしらの『道』の師というものは、こういうとき、まさに超人的な術を披露して弟子をビビらせるものである。
 大正時代、『弓と禅』の著者であるドイツ人哲学者、オイゲン・ヘリゲル氏は日本で弓道の指導を受けていた。だがその所作の一つ一つに合理的解釈を得ることができず、指導者の教えに不信を抱いていた。
 それに対し、指導者である東北帝国大学の弓術部師範、阿波研造氏は夜の弓道場にヘリゲルを招くと、電灯を点けていないほぼ暗闇の的場に向かって礼法を舞うように二射した。
 ヘリゲルが電灯を点けると、彼は驚くべき神業を目撃した。
 師が最初に放った甲矢はやは的の中心を貫き、二射目の乙矢おとやは甲矢の軸を裂いて黒点に突き刺さっていたのである。
 その神業に自らの心をもまた射抜かれたヘリゲルは、師への疑いを捨て、良い弟子となっていった。
 そう……今の俺が求められているのは、このレベルの神業である。
 俺もビシッとかっこいいところを目の前の女子に披露して、尊敬を集めたい。
 たとえば何かこう、壺状のものに手を入れて、中から現金を取り出すというような技ができればいいのだが……そのレベルの完全に物理法則を超越した技を行うには、明らかに俺の修行が足りていない。
「と、とにかく次週には、俺は確実に『豊かさ』を持ってくるから見て驚くなよ」
「楽しみですね」
 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる青山に対し、とりあえず俺は豊かさを生み出すための講義を続けた。
 青山はあまり興味なさそうだったが、それでもメモをとりつつ聴いてくれた。
「さて……豊かさというものは、現代であればYouTubeのPVのような、他者からの注目から生まれることが多い。だがより根本的な本質に立ち返って考えてみると、豊かさは人間の意識そのものから生まれているということがわかる。それゆえに意識の使い方に習熟することが、豊かさを自在に生み出すためのファーストステップになるんだ」
 そんな原理原則についての話を要所要所にちりばめつつも、基本的には青山の『鈴虫チャンネル』のPVをいかにして増やすかという具体例をベースとした講義&コーチングをする。
 そうこうするうちに窓の外は赤く染まり、あっという間にセッション予定時間が過ぎてしまった。
「すまない。ちょっと長くなったな。続きはまた来週」
 おまけのお茶を一気飲みした俺は、ルノアールのソファから腰を浮かせた。
 青山は俺を呼び止めた。
「滝本さん、お腹空いてないですか?」
「むろん空いているが、それがどうかしたか?」
「ラーメン食べに行きません?」
「いや……俺の『豊かさ』は、非顕現の目に見えぬエネルギーの渦として喚起されたばかりで、まだ実体化していないんだ」
「お金がないってことですよね」
「…………」
「実は一人じゃ入りにくい店が近所にあるんです。おごりますから付き合ってください」
 金のない恥ずかしさにむっつりと押し黙った俺を、青山は近所のラーメン屋に連れていった。
 そこは豚の脂身やニンニクを大々的にフィーチャーしたタイプの店で、野性味ある身なりの男たちによる長い行列ができていた。
 確かにこれは女性一人では入りにくい。
 などと思っていると、青山は一瞬の迷いもなく店内で食券を二枚買って一枚を俺に与えると、列に並んだ。
 しばらくして店内に通されたあと「ニンニク入れますか?」という店員からの問いかけがあり、それに対して青山は「ニンニクマシマシアブラ多めヤサイ」とよく通る声で即答した。これは絶対に通い慣れている。
「お客さんはどうします?」
 店員に聞かれ、この種のラーメン屋について知識を持たぬ俺は、「あ、あ……」と戸惑いながら、青山と同じ呪文を返してしまった。
 しばらくすると大量のニンニクと脂身が乗った丼が目の前に運ばれてきた。
「これ……食えるのか?」
「こうやって食べるんですよ。天地返し!」
 青山はゴワゴワした麺を丼の底から掬い上げてもやしと脂身に乗せると、それをワシワシと掻き込み始めた。

 半死半生でアパートに帰った俺は、胃の中のものを消化するため一眠りした。
 五時間後に気持ち悪さが消えたので、そろそろ本格的に『豊かさ』を呼び寄せる作業を始めることにする。
 ベッドから跳ね起きた俺は腕まくりした。
「さてと、一丁やりますか。『豊かさの引き寄せ』を」
「具体的には何をするつもりなの?」
 ブルーライトカット用のメガネをかけてiMacに向かっていたレイが、顔を上げてこちらを見た。
「まずは引き続き、いらないものの処分だ」
「これはダメよ。私がテキスト執筆と内職に使うんだから」
「わかってる。そのiMacは旧式すぎて、メルカリで売っても送料に負けるぐらいだ。だいたいもうメルカリでやりとりしてる時間はない。売れそうなものを鞄に詰めてブックオフに持っていくから手伝ってくれ」
 俺とレイはドラムバッグにどさどさと古本を流し込んだ。
 それを担ぎ、バス代を節約するため徒歩で駅前まで四十分歩き、買取カウンターにどさっと置く。
 その後しばらく店内をうろついていると、査定完了のお知らせが店内放送で流れた。
「お。千円超えたか」
「あれだけ重いものを担いで千円……滝本さん、かわいそう」
 レイが俺に哀れみの目を向けた。
「千円をバカにしたものじゃないぞ。千円あればなんでもできる」
 ブックオフと同じビルに入っているスターバックスに、俺は千円片手に颯爽と入店すると、なんらかのビバレッジ、すなわち水以外の飲み物を頼もうとした。
「だ、ダメよ滝本さん! それは部屋中の売れそうなものを全部売ってやっと手に入れたなけなしの千円なのよ! ただの飲み物に使っちゃうなんて正気じゃないわ!」
「はっ、バカだな、スターバックスのドリップコーヒーは、世界中のコーヒー産地から厳選された高品質のアラビカ種コーヒー豆を使用した定番商品なんだ。バラエティあふれるコーヒー豆を通して、スターバックスのコーヒージャーニーを楽しめるんだぞ」
 俺はレジカウンターの列に並びながら、スマホで調べた情報をレイに伝えた。
「で、でも! 滝本さんは『豊かさ』の証拠を、人間女性の青山さんに見せなきゃいけないんでしょう? その元手になる大切な千円を、こんなことに使っちゃうなんて……そうよ、このビルの上にダイソーがあるから、そこで何か人間女性が喜びそうなプレゼントを探しましょうよ!」
「小学生じゃないんだぞ! 百均のアイテムをプレゼントされて喜ぶ女性がどこにいるんだ。そんなことをしたら豊かさどころか侘しさを増幅するハメになる」
「現実を受け入れましょうよ。滝本さんは現に貧乏で侘しい生活を送っているんだから」
「げ、現実だと? そんなものを受け入れたら、俺は、俺は……」
 明らかに向いてない倉庫作業をして一生を終えることになってしまう。それを思うと心臓がバクバクしてくる。
 だがレイはわかっていないのだ。この現実とは、自分の好きなようにデザインするためにあるのだ。そのための最初の一歩が、このスタバでの優雅なカフェタイムである。
 俺は窓際のカウンターに腰を下ろすと、窓の外の活気ある駅前の光景にオーバーレイして、『自分が望む現実』のヴィジョンを思い描いた。
「やっぱり豊かさと言えばあれだ。タワーマンションだよな」
 説得を諦めて俺の優雅なカフェタイムに付き合うことにしたらしいレイは、目を閉じると夢みがちな顔で言った。
「私は暖炉のあるログハウスがいいわ」
 緩やかにゆらめく暖炉の炎……それは確かに俺としてもロマンを掻き立てられるところである。
 小学生のころ、祖母の家には居間の真ん中に薪ストーブがあって、雪の降る日に薪をそこにぽいぽいと放り込んでは、それがパチパチと音を立てて燃えていくのが好きだった。
 失われしあの少年時代を思い出して、ふいに目頭が熱くなる。俺は頭を振った。
「だ、ダメだ。これは『豊かさ』というよりも『郷愁』だ。そんな切ないものよりも俺はな、もっと力強いマネーのギラギラした感じが欲しいんだ。やっぱタワマンだよタワマン」
 俺はコーヒーを大事にちびちびと啜りつつ、スタバのカウンターに屹立するミニチュアのタワーマンションを、ジェスチャーでレイに示した。
「バベルの塔……五稜郭タワー……人は常に高い塔を建ててきた。それはな、自らが神となろうとする人間の飽くなき本能なんだよ。俺はその力への意志を肯定する。タワマンに住みたい」
「夢を持つのはいいことだけど。ねえ、もう少し現実的な夢を見ましょうよ……」
「うおおおおお! タワマン、来い!」
 俺はコーヒーをカウンターにダンと置くと、智拳印を結んで瞑想状態に入り、タワマンでウイスキーを傾ける自分自身を幻視し、その未来を全力で引き寄せた。
 瞬間、心の中の銀河コアの中の虚無から『豊かさ』のエネルギーがジェネレートされ、それは勢いよく俺の全身に広がった。
「ぐっ……ううっ……」
 脆弱な電気回路に大電流が流れ込んだかのごとき衝撃が、俺の肉体に生じた。スタバのカウンターでぎゅっと目を閉じた俺は、動物のシバリングのように細かく震え続けた。
 コーヒーが完全に冷えるころ、なんとか豊かさのエネルギーを吸収できた。
 目を開けると、レイが俺を心配そうに覗き込んでいる。
「ちょっと滝本さん、大丈夫なの? タワーマンションに住めそう?」
「…………」
 正直なところ、タワーマンションが引き寄せられた感じはない。ていうか現状、ただスタバで瞑想したあげく、心の中で高まる何かしらのエネルギーに圧倒されて細かく震えるという、あまり近寄りたくない男になってしまっただけである。
 今になって周りの目が気になる。
 ヨレヨレのシャツを着た俺という存在が、この爽やかなスタバの空間にそぐわないように感じられてならない。
 だが、このような心理的不快感を乗り越えた先に、『豊かさ』はあるはずなのだ。
 貧乏人というものは、常に自分の狭い世界に閉じこもりがちだ。
 だが俺はどんな心理的不快感も乗り越え、居心地のいい領域を踏み越え、新たな富の待つ未到の新世界へと乗り出していくパイオニアである。
 大阪の新世界にも、一度だけ行ったことがある。昼間から酒を飲んで路上に転がっている老人たちの間をすり抜けて俺は串カツを食い、あの大阪のシンボル、通天閣に一人登った。通天閣の展望台にはビリケンの像があった。
 天に向かって屹立する通天閣、そして尖った頭と吊り上がった目を持つ幸運の神像、あのビリケンを心に強く思い描くと、俺は再度、智拳印を結んで強く祈った。
「うおおおおおお! 金! 金をくれ! 神よ、俺に金をくれ!」
 だが目を開けるとそこはスタバであり、特に何かの変化が生じたようには感じられない。
 やはり心の中で祈るだけでは、祈りとしての強度が足りないのだ。
「そう言えば……一説には、お札というものはせせこましい折りたたみ財布より、ゆったり気持ちよく収まることのできる長財布の方に入りたがる習性を持っているらしいな」
 俺はスタバのコーヒーを飲み干すと、上の階にあるダイソーで税込三百三十円の長財布を購入した。
「ちょっと滝本さん……そんなおまじないみたいなことをしたって、お金が入ってくるわけないじゃない」
「うるさいな、わかってるよ! だがときに人は何かの不合理な行動に頼りたくなるんだ! 鰯の頭も信心なんだ!」
 ダイソーを出て駅前を歩いていると、アクセサリーの路上販売に呼び止められた。
「お兄さん、ブレスレット、ピアス、安いよ、安いよ」
「おっ。これは金のブレスレットじゃないか」
「かっこいいよ。どう?」
 俺は長財布を覗いた。
「ギリギリ買えるな。これをくれ」
「ちょっと滝本さん!」
「うるさいな。金は金を呼ぶ。常識だろ」
 レイの小言をスルーした俺は、ギラギラ輝くブレスレットを腕にはめた。
 長財布を尻ポケットに入れ、金メッキのブレスレットを着けると、ただ心の中で祈っているよりも自分が金持ちになったように感じられた。やはり俺に必要なのは、この『豊かさ』の実感だったのだ。
 すべては信じ、演じることから始まる。
 かつて小学生だった俺は、天才作家になろうと決意した。
 そこで俺は、日夜、頭の中で『俺は天才、俺は天才』としつこく唱えた。
 しばらくすると、だんだん自分が天才に感じられてきた。
 今では自分が天才であることは、この地球が球体であるのと同様、天地の真理として感じられる。
 同様に、豊かになる道も、まず自らが豊かであることを信じ込むことから始まる。そのためには、小道具を使ってでも『豊か感』をリアルに感じてみるべきなのだ。
 俺は長財布とブレスレットから立ち昇ってくる『豊か感』を、うっとりと味わい吸収した。
 理論的には、この『豊か感』が磁力を持ち、近いうちに何かしらの物理現象として三次元空間上に結晶化するはずである。
 俺は辛抱強くそのときを待った。
 しかし一日経ち二日経ち三日経っても、俺の生活は豊かになるどころか、さらにどんどん貧相になっていった。
 先日、青山にいただいた五万は各種の支払いで瞬間的に蒸発している。
 夜の倉庫で段ボールを運べども運べども、得られる金はその日の食費で消えていく。
「なんで暮らしが楽になんねえんだよ! 石川啄木かよ!」
 夜中に倉庫作業から戻ってきた俺は、軍手を床に叩きつけ愚痴を叫んだ。隣室の男が壁をガンと強く殴ってきた。殺伐とした気持ちがどんどん高まっていく。
「みんな偉いぜ。こんなストレスフルな毎日で、悪いこともしないで毎日真面目に働いてるんだからな。俺は今にも爆発しそうだぜ」
 ソファで寝ていたパジャマ姿のレイが半身を起こし、寝ぼけ眼をこすりながら言った。
「人生、真面目が一番よ。滝本さんも変なことを考えてないで、もう早く寝ましょ。こっちにいらっしゃい」
 さらに翌日、翌翌日も俺の口座残高はゼロに近づいていくばかりであった。やっとのことで数千円の余裕ができたと思ったら、国民健康保険の自動引き落としによって、それは幻のごとく消えた。
「や、やばいぞ。青山に『豊かさ』を証明するどころか、今日の食い物すらないじゃないか」
 半ばパニックに陥りながら、顔を突っ込むように冷蔵庫を覗き込む。
 奥の方に、食べ忘れていたザワークラウトの瓶が一つ。干からびてガチガチになっているハム状のものが一つ。それとオートミール百グラム弱。これが俺に残された食料のすべてである。
「なんだこの状況は。俺に断食しろっていうのか。軽はずみな断食は心と体のバランスを崩すんだぞ。インド四千年の叡智、ホリスティックな健康法であるところのアーユルヴェーダでも、断食は基本的にはやらない方がいいとされているんだぞ」
「落ち着いて滝本さん! そうだ、野草、野草を探しに行きましょ。私が調べてあげるから」
 レイはiMacで『野草』『食べられる』というワードを検索し始めた。
 俺は思った。
 堕ちるところまで堕ちた。
 そのショックで、心の中に自動的にポエムが紡がれていく。
 ……人間は、どうして貧富の差があるのだろう。全人類が俺に一円くれたら俺は金持ちになるのに、どうして皆、俺に一円くれないのだろう。
 それは俺が真面目に働いてないからだっていうのか? 俺に労働力がないからだっていうのか? 俺に市場価値がないからだっていうのか?
 そんなことはない。
 俺は真面目に働いてきた。
 この二十数年、来る日も来る日も額に汗して働いてきた。なのに手元にあるのは一日分のオートミールだ。俺はこれを歌にして令和の貧窮問答歌として売り出したい。そうすれば印税が入って飯が食える。
 だが俺の書く文章にはたいした市場価値がない。そんな心の声も聞こえる。だいたいにおいて俺の書く文章にもっと市場価値があれば、そもそもこんな貧しい生活を送ることもなく、明らかに向いていない倉庫のバイトなどする必要もなかったのだ!
 俺がバイトするたび、バイト先の優しい先輩が俺に向かって教え諭す。
『滝本君……バイトってさ、どれも簡単な仕事のように思えるかもしれないけど、やっぱり向いてる人と向いてない人がいるんだよね』
 そんなことはわかっている!
 俺だってこの仕事に向いてないと思いながら段ボールを運んでいる!
 じゃあ俺に向いてる仕事はどこにあるんだ?
 それは、それは……。
「やっぱ超人……それが俺の仕事だよな」
 俺は超人業をもっと真面目にやっていこうと決意した。
 どんなことをやっていたって、人生は浮き沈みがある。
 金持ちになるときもあれば、貧乏になるときもある。
 良い人間関係に恵まれ天にも昇る心地になるときもあれば、また孤独に戻り、何年も一人で牙を研がねばならぬときもある。
 その浮き沈みのあらゆる局面で、人はライフワークを積み上げていくんだ。
 だから極貧の時も、目の前のライフワークをサボるわけにはいかないんだ。
「だがその前にまずは腹を満たさないとな。食える野草を探しに行くか。今度給料が入ったら、釣り道具を買って川崎の海で釣りするのもいいな」
 俺はレイが送ってくれた『身近にある美味しい雑草まとめ』をスマホに表示すると、軍手をポケットに入れて部屋を飛び出そうとした。
 そのときだった。
 玄関でヤマト運輸の方と鉢合わせした。
「あー滝本さん? お届け物です、こちらにハンコかサインを」
「え、あ、ありがとうございます」
 まったく心当たりのないその段ボールはずっしりと重い。
 抱えて部屋に運び込んで差出人を見ると、実家の両親からだった。
 急いでバリバリとガムテープを剥がすと、中には食料がいっぱいに詰め込まれていた。
 米、肉、そしてズボラな人間でも食べやすい冷凍食品、さらには郷土のお菓子と裏の畑で採れた野菜。
 無限に湧き出てくるかのように、段ボールの中からいくつもいくつも食べ物が現れた。
「まじかよ……このタイミングで食い物が……う、ううっ」
 野草を食ってやるというカラ元気が抜けた俺の目から、ポトリと涙がこぼれ落ちる。
「ふう、よかったわね……持つべきものは優しいご両親ね。ありがたく感謝するのよ。滝本さんは親ガチャ成功してるんだから。とりあえずご飯炊くわね」
 台所に立とうとするレイを、俺は涙を拭きながら制止した。
「ま、待て。米は使わないでくれ」
「どうしてよ? ずっと温かい米、茶碗に山盛りになった米が食べたいってブツブツ呟いていたでしょ。念願のお米、一緒にお腹いっぱい食べましょうよ」
「米……それは豊かさの象徴だ。この米を俺は青山のところに持っていく」
「うーん。喜ぶかしら」
「…………」
 確かに、俺から米を受け取ったら、豊かな気持ちになるよりも、むしろ悲しい気持ちになってしまいそうだ。
 仕方がない。米は自宅消費しよう。
 だが……そうすると、何を青山に豊かさの証拠として見せればいいんだろうか。
「あら、これは何かしら? 段ボールの底にこんな本が敷いてあったわよ」
 レイが段ボールから取り出した本を、俺は手に取りパラパラとめくった。
「ああ、これはカタログギフトだな。ちかごろ田舎で続いている葬式ラッシュの香典返しに、父か母がもらったものだろう。それを東京で消耗している俺のために送ってくれたんだろう」
「ってことは、この本にたくさん載っている電化製品や文房具や食器、どれでも一つ好きなものをもらえるのね? やったじゃない、滝本さん! このカタログギフトを使えば青山さんに何か洒落たものをプレゼントできるわよ!」
 瞬間、俺の脳裏に勝利のファンファーレが響いた。
 俺はやったのだ。
 超人の力を使い、無から『豊かさ』をジェネレートすることに成功したのだ。
「何言ってるのよ。ぜんぶ滝本さんのご両親のおかげじゃない」
「うるさいな。経緯はどうであれ、とにかく俺の手元にこのカタログギフトがあるのは事実だ」
「はいはい、わかったわよ。とにかく青山さんへのプレゼント、何がいいか一緒に選びましょ」
 俺とレイはテーブルにカタログギフトを広げると、クリスマス前日の児童のごとき気持ちでページをめくっていった。
「あら、これなんてどう? 銀座名店のお菓子詰め合わせですって」
「食い物なんて一瞬で無くなるだろ。このスイス製十徳ナイフの方がよくないか?」
「こんなの鞄に入れて持ち歩いてたら、おまわりさんに捕まっちゃうわよ。そんなのよりこれはどう? 温泉日帰りチケットですって」
 カタログの後方には、日帰り温泉や陶芸などの体験ギフトチケットが掲載されていた。
「ふむ、温泉か。金がなくて長いこと入ってないな。箱根とまでいかなくとも、いつかまた温泉に入って身も心も温まりたいものだぜ」
「このチケットを使って青山さんを誘ったらいいでしょ。日帰り温泉に」
「ば、バカ! そんなことできるかよ。そんなのは恋人のやることだ」
「ふふふ、いつだか私たち、箱根の温泉旅館に二人で旅行に出かけたわよね。あの夜のこと、滝本さん、覚えてる?」
 顔を赤らめるレイを無視し、俺はカタログをパラパラとめくった。すると温泉チケットの後ろのページに、まさに今の俺が最も必要としている体験ギフトが掲載されているのに気づいた。
「こ、これだ!」
 俺は即座にネットを介してそのチケットを申し込むと、数日後、いつものルノアールに出かけて青山と向かい合った。
 そして超人になるための講座を一回分進めると、講義後の短い自由会話タイムでおもむろに切り出した。
「あのー青山さん」
「はい、なんでしょう」
 青山はノートをバックパックに詰めながら俺を見つめた。
「あ、この鞄、よくないですか? ケシュアって言うメーカーで、安いけどすごく機能的でかわいいんですよ。この前のバイト代で買いました!」
 そう誇らしげに語る青山。
 俺は思わず目頭が熱くなった。
 汚れ切った日本社会にも、こんなにも心の美しい若者がいるんだ。貧しくともささやかな日々の労働の喜びを大切にできる若者がいるんだ。
 だが、その『ささやかさ』の中で満足してほしくはない。
『足るを知るのが大事』なんて訳知り顔で囁く、心の折れた大人になってほしくない。
 もっともっと、もっと大きく。
 それがこの宇宙の基本法則だ。
 我々がぼんやりしている間に、宇宙はどんどん拡張している。それに負けぬぐらい我々も成長していかなければならない。成長するにつれて、豊かさも爆増していかねばならない。
 だが得てして貧乏な若者の心には『豊かさのリミッター』がかかっている。
 アフリカで安心な飲み水がない生活をしている子供は、水をひねれば無限に綺麗な水が出てくるこの日本の生活を想像できない。同様にバイトでその日暮ししている者は、音楽鑑賞などの心を豊かにするアクティビティにお金を使うという発想を持つことができない。
 だから貧しい人間はいつまでも心が貧しいままであり、それゆえに真の物理的な豊かさを得ることもできぬまま一生を終えてしまうのである。
 清貧を尊ぶ女子、青山も、そんな貧しさに縛り付けられた人生を送ることは想像に難くない。
 だが幸か不幸か、青山は超人たる俺に出会った。超人とは自らの運命を何度も書き換え刷新する力を持つ者である。
 また超人は、ふとしたはずみで他者の運命をもまた良い方向へと、軽はずみにアップデートしてしまう存在である。
(いいだろう……この超人の力を使って今、青山を豊かな世界、リッチワールドへと導いてやる!)
 俺は意を決して青山を誘った。
「へー、いい鞄だね。それはそうと、青山さん、音楽……特にジャズに興味ない?」
「え、私はジャズかなり好きですよ。この前、『BLUE GIANT』って映画を観て感動して、私もサックスの練習しようかと思ったぐらいです。寒さには結構強いんで、私だって河原で三時間くらいなら練習できますよ」
「あのさ、前に俺、言ってただろ。超人の力で『豊かさ』を生み出し、それを青山さんに見せてやる、って」
「もう……いいですってばその話は。別に滝本さんにそんなの期待してないですよ」
「これを見てくれ」
 俺はポケットから封筒を取り出し、その中の紙切れをテーブルに置いた。青山は顔を近づけてその紙切れの文字を読み上げた。
「『ブルーノート東京』ご招待カード? ぶ、ブルーノートってあの、日本で一番有名なジャズクラブのことですか? ブルージャイアントのクライマックスの舞台のモデルですよ! 世界から本当の一流アーティストが集まる大人の世界ですよ! なんでそんなところの招待券を滝本さんが持ってるんですか!?」
「ふっ。これが超人の力だ」
「すごい! すごいです滝本さん! 滝本さんと一番似合わないジャズクラブの招待券を手に入れるなんて、普通はできないことですよ!」
「ま、まあな。それでその……どうだい青山さん、行ってみないか、俺と一緒に。ブルーノート東京へ」
 青山は一瞬、ぽかーんとした顔を見せたがすぐに顔を赤らめ、目を逸らした。
 俺も急激に恥ずかしくなってきた。
 四十を超えてほぼ無職の俺が、調子に乗って若い娘をデートに誘ってしまった。
 SNSで叩かれる行為をしてしまった気がしてならない。
「い、嫌ならいいんだ……ただとにかく……俺は豊かさってやつを君に見せたくて……」などとブツブツと口の中で呟いていると、いきなりぐっと身を乗り出してきた青山に手を掴まれた。
「行きましょう滝本さん! 私、行ってみたいです、ブルーノート東京に!」

 その後、二人でスマホを見て、どの公演を観に行くか決め、予約をした気がする。青山と別れ、ルノアールから出た俺は、夢見心地でアパートに帰宅した。
「あらおかえりなさい滝本さん。デートの約束、うまく取り付けられたのかしら? 真っ青な顔して、もしかしたらダメだったの? いいのよ、ダメでも。私がついてるから安心して。今度また温泉にでも旅行に行きましょう。はいこれ、読んで!」
 レイは俺のスマホに以下のテキストを送りつけてきた。

レイちゃんの知恵袋 その10
『旅に出る』

 人生は冒険の旅だ!
 みなさん旅してますか?
 人間は昔、今よりももっとたくさん、移動して暮らしてたんですよ。
 狩猟採集時代、人は獲物を求めて、あっちに行ったりこっちに行ったり、いつも動いて暮らしていたんですよ。
 ですが農耕が始まったら、一箇所に定住するようになってしまったんです。
 もちろん定住は悪いことじゃありません。一つの場所に腰を落ち着けることで、いろいろ考え事も深まりますし、それによって今の文明が生まれたのです。
 ですがどれだけ文明が発展しても、人間の心と体は、マンモスを追っていた時代からそんなに変化していません。
 今も人間の心と体は、何か良いものを求めて、場所から場所へ、てくてく移動していくことを求めてるんです。
 その本能は、常に私たちを旅行へと駆り立てています。少し気を抜くとすぐアパートにひきこもってしまう滝本さんも、実は内心では旅行を求めているんです。
 さあ旅行に出かけましょう!
 旅に出れば何もかもがうまくいく!
 だって旅は人間の本能だから!
 今ここではない別のどこかに、あなたを待っている人がいます。
 山を越えた向こうに青い鳥がいて、それを手に入れれば幸運に恵まれます。不思議の国ガンダーラには愛が溢れているんです。
 ポケットにビスケットを詰めて、青春18きっぷを買って、とにかく電車に乗っちゃいましょう。
 行き先なんて別にどこでもいいんです。私としてはまた滝本さんと箱根の旅館に泊まって温まりたいけど、別に日帰りだっていいんです。
 滝本さんと電車に乗って、窓の外を流れる景色を二人で眺めていられるなら、それが私の最高の時間なんです。
 忙しいのはわかってるから、半日だけでもいいですよ。
 行きましょう、旅行!
 きっと元気になりますよ!

(つづく)

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連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新

滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt

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