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第九話 鈴虫と金と超人 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」

老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊


 青山から五万円を受け取った俺は、数日もの間、無敵感に支配されて生きた。
 苦しい小説執筆や肉体労働、そんなものをしなくても大金が手に入ったのだ。金とは本来、特に何をしなくても手に入るものだったのだ。それがこの世の真理だったのだ。
 現にこの地球は、なんの対価を払わなくとも俺の足元に存在し、生活基盤を提供してくれている。
 また太陽も核融合を続け、基本無料で莫大なエネルギーを俺に送り続けている。
 このようにあらゆる富の源泉は無償で俺に与えられているのだ。
 青山という謎の女を通じて俺が五万円を受け取ることも、そのような宇宙の基本原理が反映されたものと考えられる。
「…………」
 だが数日が経ち興奮が薄れると、今度は不安に襲われた。
 何の根拠もなく与えられた五万円は、また何の前触れもなく奪われる可能性がある。
『五万円を返してください』というメッセージがいつ来るか不安で、スマホに通知が来るたび俺の自律神経は乱れ、夜に悪夢で目覚めるようになった。
 この不安を払拭するためには、やはり対価を差し出すしかない。
 俺は五万円相当の価値ある個人講座を組み立てようとした。
『すごい! 滝本さんのプライベートレッスンで私は超人になれました!』
 こう青山に感じさせることができれば、五万円を返さずにすむだけでなく、来月の月謝すら得られるかもしれない。
「というわけで、いいかレイ。お前が生徒役だ」
 俺は昼下がりのアパートで脳内彼女のレイに向き合うと、超人になるための講座のシミュレーションを始めた。
「俺の講座を聴いて、何かわかりにくいところがあったら教えてくれ」
 だがソファに座るレイは思わぬ脇道へと俺をいざなった。
「ふふ。教師と生徒ってなんだかドキドキしちゃうわね」
 レイは足を組んだ。スカートの裾から伸びる白い太ももが俺を刺激する。
「お、おい。真面目にしろよ」
「真面目よ。もしかしてその青山さんも滝本さんのことが好きなんじゃないの?」
 レイは少し前かがみになると上目遣いに俺を見上げた。学生服の胸元、その奥の柔らかな膨らみが覗けそうだ。
 俺は目をそらした。
「バッ、バカ言え。だいだい年齢差を考えろ。あいつはたぶん俺の半分もこの世に存在してないんだ。そんな者同士の間に恋愛関係が成り立つわけがないだろ!」
「あら、滝本さんにしては珍しく社会常識を気にかけるのね。『年齢、そんなものは幻に過ぎない』とか言いそうなところじゃない」
「たっ、確かに……時間の流れは脳が生み出している幻想だとは、科学方面でもスピリチュアル方面でもよく言われることである。だとしたら年齢もまた人間の文化が生み出す共同幻想なのかもしれない」
 レイはうんうんとうなずいた。
「あまり社会常識から外れないでほしいけど、この件に関しては滝本さんを応援するわ。いつまでも恋を諦めないで。年の差なんて気にしちゃダメよ!」
 確かに、俺は少なくとも千歳までは生きる予定の男だ。そんな俺が多少の年齢差を気にしていたら、この世から恋愛対象がいなくなってしまう。
「そう言えばあの三国志の劉備りゅうびも、五十歳近くになって十代の才気豪勇な娘、三國無双シリーズでおなじみの孫尚香そんしょうこうと結婚してたよな!」
「そうよ滝本さん、気持ちが若ければなんでもできるのよ! 無双ゲージを溜めていきましょう!」
 だがそのレイの言葉で俺は我に返った。
 近頃、めっきりアクションゲームをプレイしていない。あれほど初代を発売日にワクワクしてプレイした『アーマード・コア』その最新作もまだ買っていない。
 なぜなら使うボタンが多いゲームは今の俺にはちょっと難しそうだからである。そんな俺は、もう気持ちどころか脳も老いてる気がしてならない。
 だいたい俺は劉備ではなく一介の滝本竜彦だ。こんな俺に若い女と恋愛する資格などない。
 一介のおじさんに過ぎない俺は、汚い生物として蔑まれながら、就職氷河期生まれのこの身を粉にし、砂を噛むような虚しい仕事に命を捧げる生を送るべきなのだ。この国の未来の礎となるために。
「…………」
 などと辛い現実を直視していると、メラメラと俺の体の奥からどす黒い闇のエネルギーが湧き上がってきた。
「こ、こうなったらおじさんの力を見せてやる。これまで積み上げてきた金……金の力で若い女と付き合ってやる!」
「闇堕ちしたらダメよ滝本さん! それに滝本さんは何も積み上げてないでしょ! 銀行口座は空っぽでしょ」
「おっ。それもそうだったな」
 金の力で若い女を魅了するという俺のアイデアは霧散した。そもそも俺は金を提供してもらわなければならない立場なのだ。
 そのための対価……超人になるための講座……その構築に今は全力を注ぐべきだろう。
 剣聖、宮本武蔵も伝説の武芸書『五輪書』に書いている。強い軍勢を正面から押し込めるのは難しい。それよりも、手を付けやすい『角』から手を付け、そこから状況を打開していくべきである、と。
 そういうわけで、俺は『中年弱者男性の恋愛問題』という解決しがたき悩みを脇に置くと、ペルソナ『講師』を強く再セッティングした。
 その上でレイを相手に講義を練習する。
「ええと……では始めていきます。そもそも超人というのはですね。ものすごく簡単に言えば、自らの意志で自らの望む世界を創ることのできる人間です」
「へえ。そうなのね」
 ソファでハーブティーを傾けるレイ、彼女を午後の日差しが照らしてる。
 アパートの隣に建つマンションに遮られ、弱められた夏の日光は、ディフューザーがかけられたストロボのように、少女の古ぼけた学生服を暗がりの中に淡く浮かび上がらせていた。

 青山との初回セッションが始まった。
『私の家でもいいですよ。すごく狭くて古いんで、ぜひ中を見てほしいですね』
 LINEでの打ち合わせにおいて、何を考えているのか、また青山は俺を自宅に招こうとした。
 俺は丁重に断ると、慎重に選定した場である喫茶室ルノアールに青山を呼んだ。
 この喫茶店はコーヒーを飲んだあと、お茶が無料で出てくるため経済性が高い。
 またかつて俺は、ここの会議室を借りて『現代瞑想研究会』なるワークショップを開いた経験がある。さらには『たきもとヒーリングサービス』なる、心と体の癒しのための対面カウンセリングをやっていたこともある。
 そういうわけで、何かとルノアールには慣れているのだ。
「さて、と……今日のセッションの予習でもしておくか」
 俺はルノアールの隅の席に座り、一番安いブレンドを頼んで手帳を開いた。そこには他者に知識とスキルを伝授するに当たっての大切なポイントが箇条書きでメモされていた。
 これは長年の講師業の中で、数多あまたの苦闘の果てに俺が見出したリアルな叡智えいちの結晶である。声に出して読み上げる。
「ポイントその1……とにかく何が何でも生徒の興味を引き付けること」
 メモを読む俺の脳裏に、専門学校での過去の授業の悪夢めいた記憶が蘇った。
 あの日、教室にいる生徒全員が俺の授業を無視してスマホを見ていた。それは生徒全員が俺の授業に飽きていることを如実に表していた。
 あの日、俺は学んだ。
 どれだけ正確な知識や、役立つ情報を伝えようとしても、その瞬間に生徒の興味を引き付けられない講義の価値はゼロなのだ。それゆえに講師はまず何よりエンターテイナーであらねばならない。
 俺は自らの内なるひょうきんな人格を活性化した。
「ポイントその2……和やかな雰囲気を創ること」
 メモを読む俺の脳裏に悪夢めいた過去の記憶が蘇った。
 ある年のこと、俺の授業内で生徒たちは派閥に分かれて互いに対立し、ギスギスした雰囲気を作っていた。
 せめて学年の最後だけでも楽しい時間を作りたい。その想いから俺は卒業間際の授業でTRPG大会を開いた。
 イマジネーションを使って物語を創造し、その中で別人になりきって遊ぶテーブルトーク・ロールプレイングゲーム。
 その中でなら皆、これまでのギスギスした学生生活を忘れて楽しく遊んでくれるはずだ。
 もちろんそんなことはなかった。
 生徒たちは最後まで互いに打ち解けず、TRPGの物語の中でも派閥に分かれ、邪神の眷属に各個撃破されて全滅した。
 もう二度とあのような間違いを生み出してはならない。
 そう……講師は『和を以て貴しとなし』という聖徳太子の十七条憲法を初手で発動させ、その和を維持せねばならない。俺は自らの内なるピースメーカーを活性化した。
 そのときいつものジャージ姿が見えた。
「お、来たな。青山さん」
 俺は和やかな雰囲気を生み出すべく笑みを浮かべ、興味を引き付けるためのオープニングトークを始めた。
「きょ、今日はいい天気だな。少しずつ暑さも引いてきたようだ」
「そうですね。私は何を飲もうかな」
「ワンドリンク分、受講料に含まれているので何でも頼んでくれ」
「じゃあこの『喫茶店のミックスジュース』を」
「それにしても今日はいい天気だな。天気。天気。天気といえば……」
 俺は『天気』というキーワードをまくらとして始まる楽しい話を脳内で検索した。
 何も見つからない。
 重苦しい沈黙が流れる。
 やってきたミックスジュースを一口飲んだ青山が言った。
「そう言えば私、この前、鈴虫を飼い始めたんですよね」
「鈴虫……というと、秋にリーンリーンと鳴くあれか?」
「それです。夜中に気配を感じたんで、探してみたらアパートの庭というか、窓の外の草むらにいるのを見つけたんです」
「風流だな。そう言えば俺も小さいころ、庭で捕まえた青虫を飼っていたことがあるぞ」
「素敵ですね。私、思ったんですけど、超人というのは青虫が綺麗なアゲハ蝶に羽化するようなことではないですか? 普通の人間というのは地を這う虫みたいなものではないですか?」
「…………」
 俺の顔から血の気が引いていった。
 青山の発言、これはかなり良くない選民思想の表れだ。
 むろん『自分は特別』という感覚は、人間の成長における必要悪である。
 何かしらの努力とその結果としての成長には、必然的な反作用として、ある程度の特別意識が自然に付随するものである。
 だがまだ超人の『いろは』の『い』も教えていないうちに、このレベルの強い特別意識を抱えているようではこの先が思いやられる。
 おごり高ぶりは言語道断だ。
 放置すれば、いずれ青山は人類に悪を為すSFの悪役みたいになってしまうかもしれない。
「……そうだな」
 俺は若者の繊細な自意識を傷つけないよう、比喩的な表現を使って驕り高ぶりをたしなめようとした。
「人間は虫のようなもの、か。言い得て妙だな。だが……虫にもいろいろな種類がいるぞ。一番強いのはなんといってもヘラクレスオオカブトだろう。あの長い角が王者の証だ」
「そんなの見た目だけじゃないですか。強さならクワガタ、それもスマトラオオヒラタクワガタが最強ですよ!」
「た、確かに挟み込む物理の強さならクワガタに分があるのかもしれん。だがな、そんな一種類のパラメータで優劣を決められるようなものじゃないんだ。ムカデやサソリのような毒虫だっているんだぞ」
「毒……それは強そうですね。私が浅はかでした」
「わかればいいんだ、わかれば。それじゃ今日の講義を始めるぞ……」
 自分が何を伝えようとしていたのか見失いながら、俺は超人になるための個人講座を始めた。

  超人になるためには、自らの心の中にある『超人因子』を目覚めさせればよい。
 そのとき人の意識は拡張し、『ゾーン』あるいは『フロー』などと呼ばれる特別な意識状態へと突入する。
 それはアスリートや何かしらのクリエイターが人生を賭して求め続ける心の状態である。
 ゾーン、あるいはフローの発現下にあるとき、時間感覚は変わり、今この瞬間が永遠と繋がる。
 そこで肉体的な運動をする者は自らの体が超人的な離れ業をしていることに気づく。
 そこで何かしらの創作活動をしている者は、自らが多くの人間に影響を与えるマスターピースを作っていることに気づく。
 人間の文化と社会を進化させるあらゆる良きものは、このゾーンから生まれるのだ。
 それゆえにこのゾーンを求めて多くの偉大な経営者は、意識をその状態に調整するための外的なトリガーを用いてきた。
 大麻やLSDを摂取していたスティーブ・ジョブズ氏は、フロー状態の中で普通とは違った考え方ができるようになり、世の中を変える多くのアイテムを顕現させた。
 ペイパルの創業者であり、テスラとスペースXのCEOであり、脳とコンピュータをつなぐブレインマシン・インターフェイスを開発するニューラリンクの設立者であるイーロン・マスク氏は、日常的に公の場で大麻を吸い、さらには強力なサイケデリクスであるケタミンを定期的に服用しているとのことである。
 そういったものが現在、シリコンバレーで日常的に使われ、しかもそれがリアルタイムで我々の生活に電子ガジェットを通して影響を与えている。
 これはかつてのヒッピームーブメントの『ターンオン・チューンイン(スイッチを入れて波長を合わせろ)』などというスローガンが、時代の一巡の果てに、現実的な力を持ってこの社会に根づいたものと捉えることができる。
 そのスローガンに従って我々が今ここで入れるべきスイッチとは、ゾーンに入るためのスイッチであり、フローに乗るためのスイッチであり、自らの中の超人因子を覚醒させるためのスイッチである。
 その秘められたスイッチを押すために、西洋文明では何かしらの薬物を摂取しがちだ。
 それは映画『マトリックス』の中では、自らの人生を主体的に創る力に目覚めるための覚醒薬として提示される、あの赤のカプセルに象徴されている。
 だが薬物という物質的なものをトリガーとして自らの意識を調整することは、決してすすめられたものではない。むしろそれは意識の統御力が、ある一定以上の高みに進化することを妨げるリミッターとして働くことになるだろう。
 薬物、アルコール、タバコなどに頼っては、自らの意識の力が強まるどころか弱まってしまう。だから我々は、物質的なトリガーはできるだけ使わず、クリーンな意識そのものの力によって自らの超人因子を健全に目覚めさせなければならない。
「つまり薬物を使うのはダメ、ゼッタイということだ。ここまでの話、わかったかな?」
「はい! とにかくその超人因子ってのを目覚めさせればいいんですよね!」
 ルノアールのテーブルに前のめりになった青山は目を輝かせている。
「ま、まあ早い話、そういうことだが……」
 圧に押されながらも俺は説明を再開した。
 仮に健全な方法で超人因子を目覚めさせ、ゾーンに至り、宇宙のフローと一つになり、その中でつかの間の超越体験を得たとしても、安心してはいけない。
 なぜなら目覚めた者は当然のごとくまた眠ることになるからである。
 現に我々はふとした拍子に超人因子を目覚めさせ、しばし超人となっては、またそれを眠り込ませて常人に戻ることを繰り返しているのだ。
 仕事の修羅場などでゾーンに入った経験は誰にでもあるだろう。だがその覚醒意識は長くは続かない。それは一晩寝ると忘れ去られてしまうはかないものである。
「ずっと目覚めさせておくことはできないんですか? その超人因子というものを」
「我々の三次元的生活には一種の重力が働いている。超人レベルまで高まった精神は、常にその重力によって引き下げられる運命にあるんだ」
「どっ、どうすれば重力を振り切れるんですか? ロケットですか?」
 俺は青山が使った『ロケット』という表現の続きを用いて比喩的に説明した。
「我々は、まず衛星軌道上に宇宙ステーションを浮かべなければならない」
「宇宙ステーション! ロマンですね!」
「さらにそこに繋がる軌道エレベーターを作る必要がある」
「軌道エレベーター! カーボンナノチューブで作るやつですよね!」
「そのような機構を精神の内に創ることができれば、いつでも簡単に精神を大気圏外の高みに昇らせることが可能だ。また必要であればいつでも地上に戻ってきて、そこで人間らしい地に足のついた活動をすることもできる」
「わ、私は何をしたらいいんですか? 私も今すぐそのエレベーターを作りたいです! 方法を教えてください」
「一番メジャーな方法はアレだ。瞑想だ」
「瞑想というと目をつぶって心を無にするやつですよね。やってみます!」
 青山は腕を組んで目を閉じた。
 十秒後に寝息が聞こえてきた。
 バイトで疲れているのだろう。気持ちよさそうなその眠りを妨げたくはなかったが、お金をもらっている以上、最後まで講義を続けねばならない。
 俺はテーブルに身を乗り出して、軽く青山の肩を叩いた。
「はっ! ここは……」
「ルノアールだ。青山さんは瞑想の練習をして寝てしまったんだ」
「ねっ、寝てないですよ。私、瞑想できました。けっこう得意かもしれません」
「……もうちょっと別の方法を探そうか。青山さん、最近、家で時間が空いたときに何をしてるか教えてもらえるか?」
「よくYouTubeで動画を観てますね。いつか私もYouTuberやってみたいです」
「おっ。いいんじゃないか?」
「YouTuberですか! YouTuberになると超人になれるんですか?」
「その仕事を自らの精神性を深めるための『道』とするなら、どんなことをしても超人になることは可能だ」
「なります、私、YouTuberに! どうやってなればいいんですか?」
「ええと、まずはアカウントを作ってだな。チャンネル名を作って、バナーを作って」
「何のビデオを投稿したらいいんですかね」
「ワンテーマのシンプルなチャンネルをおすすめする。最近、興味あることは何かあるか?」
「うーん。鈴虫ですね」
「それがいいんじゃないか?」
「なるほど、鈴虫チャンネルですね、やってみます! あ、機材を買わないとですね」
「いや、当面はそのiPhoneで十分だろう。機材より大事なのは心持ちだ。華道や弓道のような、精神修養の『道』として、YouTubeにビデオ投稿するんだ。そのためのガイドラインを渡そう」
 俺自身、小説執筆を自らの精神修養のための『道』として長年使っている。そのために構築済みのモジュールをカスタマイズし、青山のための『YouTuber道』としてテキストにまとめた。
 弓道の射法のように、企画、撮影、動画公開、その後の残心という各フェイズをマインドフルネスを高めながら実行することで、自ずと精神性が深まっていく。
「エアドロで送るから受け入れてくれ」
「はいっ!」
 AirDropで青山に『超人意識を目覚めさせるためのYouTuber道』のテキストを送り、彼女の質疑に答えながら細部を修正して完成版とする。
「なるほど! こうやって動画制作を一つ一つ心を込めてやっていけば、自然に意識が高まって超人になれるってことなんですね!」
「よくわかってるじゃないか。その通りだ」
「私、YouTuberという仕事は、多くの人に観てもらってお金を稼ぐことが大事なんだと思ってました。でもそういう汚い欲望よりも、心の中の豊かさが大事なんだってことなんですね!」
「……いいや。それは違うぞ。間違ってる」
 瞬間、これまでノリと勢いでなんとなく醸成されてきた良い雰囲気が一気に冷え込んだ。
 青山は一段低い声で聞いた。
「え、何がですか? 私の何が間違ってるっていうんですか?」
 せっかく培ってきた『和』を自ら投げ捨てることになるが、仕方ない。生徒の間違いは正さなくてはならない。
「超人の力とは、貧乏を肯定するようなさもしい思想とは違う。勘違いしないでくれ」
 すると青山は目を吊り上げて反論してきた。
「わっ、私がさもしいっていうんですか? さもしくないですよ! ただ心の豊かさが大事なんだって思うんです、特にこれからの時代は!」
「ああ。心の豊かさは大事だ。だがそれは、物理的な豊かさと引き換えにするものじゃない」
「でも精神性の高そうな人はみんな貧乏は美しいって言ってるじゃないですか。イエス・キリストもお金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しいって言ってるじゃないですか!」
「頑張れば通れる」
「通れないですよ、何言ってるんですか! たっ、滝本さんだって貧乏じゃないですか!」
「うっ……」
 しん、とルノアールの片隅に沈黙のとばりが下りる。それと共にApple Watchが心拍数の急激な上昇を俺に伝えてきた。
「ごっ、ごめんなさい……でも私、貧乏は嫌いじゃないんですよ。貧乏なのにちゃんと難しいことを考えて頑張ってる人は、むしろ格好いいと思います」
 俺は瞑想を防衛的に使って心の乱れを治癒しながら答えた。
「お、俺は別に貧乏なんかじゃない」
「わかってます。心が豊かなんですよね」
「ちっ、違う、物理的な、フィジカルレベルで豊かなんだよ、俺は!」
「いいんですって。無理しなくても」
 俺は急ぎ自らの物理的豊かさを証明しようとした。だが財布の中身も銀行口座も依然としてほぼゼロであり、メルカリで買ったシャツもヨレヨレだ。
 だがここで引くわけにはいかない。
 超人の力は貧乏を呼び込むものではなく、むしろ絶え間ない豊かさを無から創造するものであることを実例と共に見せつけなければ、クライアントに誤った考えを根付かせてしまう。それはいずれこの世に悪をもたらすだろう。
 防がなくてはならない。
「は、半月だけ待ってくれ。半月後、俺が超人の力で無からジェネレートした物理的豊かさの結晶をお見せしよう。それまでは青山さんも、YouTubeの更新を頑張るんだぞ」
「は、はい……」
 俺は次回のセッションの日時を決めると、ルノアールを出て走って帰宅した。
 急いで押入れを漁り、換金可能なものをメルカリに出品していく。レイが使っている古いiMacも写真を撮って出品する。
 だが数日が経ち、青山の鈴虫チャンネルに動画がアップされ始めても、俺のメルカリには値切りコメントが付くだけだった。
「五千円値引き希望だと? 足元見やがって、誰がそんな値段で売るかよ!」
「よかった。これは私が使うんだから売ったらダメよ」
 そんなことを言いながらレイはカタカタとiMacのキーボードを叩いている。
 しばらくしてLINEに謎のアンケートが送られてきた。そのアンケートに答えてしばらくすると、いつもの知恵袋が送られてきた。
 
レイちゃんの知恵袋 その9
『部屋を掃除する』

 最近、部屋が汚くなっていて不快です。
 なぜ部屋を掃除しないのか、滝本さんにアンケートを送りました。
 返ってきた言い訳を以下にまとめました。

・忙しくて掃除どころではない。
・この汚い部屋を今さら綺麗にする気になれない。
・掃除なんていうつまらない作業をやる意味が見出せない。
 
 言いたいことはわかります。
 近頃、滝本さんは肉体労働と小説執筆と渋谷でのフリーコミュニケーションワークと音楽制作と、さらに青山さんへの講義の準備で、あれこれ忙しそうにしています。
 また、この部屋を全体的に綺麗にするのは、十時間はかかる大仕事と思われます。
 だいたいいくら掃除しても、それでお金が儲かるわけでもないですからね。
 滝本さんが掃除を後回しにしてしまうのも、無理のないことです。
 ですが!
 お部屋とは、そこに住んでいる人の心の状態を反映しているものなんですよ?
 思い出してみてください、あの完全にセルフネグレクト状態で過ごしていた二十代の頃を。
 滝本さんはうず高くゴミが積み上げられた汚い部屋で暮らしていましたね。
 あの部屋を見れば誰もが直感的に気づきます。
『あ、この部屋の住人は心のバランスを崩しているな』と。
 このように、部屋を見ればその人の心の状態がわかるんです。
 そういう観点から現在の滝本さんの部屋を見れば、少しずつ心が荒れてきているのがわかります。
 床や机に細かいゴミが散乱し、押入れにはいつか捨てようと思ってまだ捨てていない粗大ゴミが押し込められ、洗面所の鏡は曇っています。
 これは滝本さんの心の表面が少しずつ汚れ、無意識の奥にも未処理の感情が押し込められていることを意味しています。鏡に映る自己イメージも少しずつ曇ってきていることを表しています。
 辛い肉体労働や、慣れない人間女性との交流が、滝本さんの心を乱しているんでしょう。
 このままではいつ本格的に心のバランスを崩して、またセルフネグレクターとして本格的な汚部屋の住人に逆戻りしてしまうかわかりません。
 だから私は全力で、滝本さんの部屋を綺麗にする手助けをしたいと思います。
 さあ、一緒に掃除をしていきましょう。
 やり方は簡単。
 ゴミを拾って、ゴミ箱に入れる。
 汚れたところは雑巾で拭く。
 疲れている日は、一日五分、いいえ、一分だけでもいいのです。
 机の上に転がるモンスターエナジーの缶を一つゴミ箱に放り投げる。たったこれだけで心はいくぶんスッキリするんです。
 全部を一気に綺麗にしなくてもいいんですよ。
 気持ちも部屋も、気長に整理していけばいいんですよ。
 ちょっとずつホコリを払っていきましょう。
 たまには押入れの戸を開けて、その奥の暗闇に光を当てていきましょう。
 そうすれば、明るい生活が待っていますよ!

(つづく)

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連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新

滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt

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