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第三話 大きな乗りもの 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」

老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊


『音楽家になる』という夢を抱いた俺は薄暗いアパートで作曲を始めた。
 ここで問題となるのがどのようなアプリを使って作曲するかである。
 二十年前……近所の友人とバンドを組んだ俺は、当時の愛機のLet's noteに本格的な音楽制作用アプリをインストールした。
 それはあまりに本格的すぎた。俺はそのアプリを一パーセントも理解できず、一曲たりとも作曲できぬままバンドは自然消滅した。
 あの失敗を踏まえ、今回はできる限りシンプルなアプリを用いて作曲を始めたい。
 慎重な選定の末に選ばれたのは、iPhoneのAuxy Studioだ。これなら適当にスマホをポチポチするだけで作曲できる。
「よし、やるか……」
 俺はベッドに転がってスマホをポチポチした。
 だがなかなか納得のいくものを作ることができない。
「…………」
 無意味な音の羅列ばかり生み出してしまう俺の脳裏に、ふと一つの疑問が生じる。
 そもそも『音楽家になること』と『不老不死になること』の間にどのような関係性があるのか?
 その疑問に続き、さらなる根本的な疑問が俺を襲う。
 そもそも不老不死なんて可能なのか?
「むろん……不老不死は可能だ」
 そのための多種多様な戦略も用意してある。
 一つ目の戦略は社会の力、すなわち他力によって不老不死になるというものである。
 縄文時代、日本列島に住む者の平均寿命は一説によるとおよそ十五歳だった。だがこの令和れいわでは八十歳を超えている。
 つまりこの社会で生きている俺は、縄文人に比べて、五倍以上も不老不死に近づいているのである。それは何もかもこの社会のおかげなのだ。
 良い巣で育てた動物は、野生の獣に比べてはるかに長生きする。
 であるならば、この社会という俺の巣、その各種機能をさらにアップデートしていくことで、自然と俺の寿命は延伸していくはずなのだ。
 そのためには社会の進化を促す働きかけを、日本に、そしてこの星のあらゆる国に向けて陰になり日向になり行っていく必要がある。
 幸いにして俺は小説家だ。文章表現によって社会に対し適切なヴィジョンとシグナルを送ることは容易である。
 事実、近作において俺は、無限性と不死性に重点を置いている。
 そこに描かれたヴィジョンは少しずつ社会に浸透し、それをアップデートし、やがて俺の寿命を延ばす他力となって俺のもとに返ってくるに違いない。
「よし、いいぞ……」
 この他力戦略の次にあるのが、自力戦略である。
 結局、社会なんてものは肝心なときにはなんの役にも立たない。
 社会に見捨てられた我々氷河期世代には、アンガーマネジメントに失敗して事件を起こしニュースの燃料になるぐらいの未来しか用意されていない。
 詳しくは知らないが最近、税金の払い方が煩雑になったらしい。これにより我々零細な自営業者の家計がさらに厳しくなる。
 畜生め。
 どこまでも上の奴らは俺から搾取するつもりなのか。まじでぶっころ……。
「はあ……はあ……」
 奇跡的にアンガーマネジメントに成功した俺は、深呼吸しながら気持ちを不老不死のための自力戦略に向けなおした。
 そもそも俺は怒るほど税金払ってなかったし、他の国に比べ日本はよく回っている方だ。その運営に携わっている皆に対しては、どちらかと言えば感謝の念を抱いている。
 だが人間、しょせん生死の際に在っては誰もが一人なのだ。そういった生殺与奪の権を他人に握らせてはならない。
 この世に何年、生きていたいのかというライフヴィジョンも、他人に決められるものではない。
 自分の人生のことは、自分で考え、自分で決めていかねばならない。
 だから俺は、せっかくだから千年、生きることに決めた。
 この決断を自力で現実化するための最重要リソースは『情熱』だ。
 情熱と言ってもロックバンドのライブのごときアッパーな情熱もあれば、都会的なジャズのごときクールな情熱もあるだろう。
 なんにせよ情熱はこの自分を目標に向けて駆動するための最重要リソースである。情熱を高めれば生きる力が湧いてくる。
 だからこそ俺は今、自分がもっとも情熱を感じる行為、すなわち音楽制作をせねばならないのだ。
 つまり今、こうやってひたすらスマホをポチポチして作曲を続けることで俺は不老不死に近づいているのだ。
「よし、俺は何も間違ってないな」
 そうつぶやきながら俺はベッドに転がってスマホポチポチを続けた。
 理論に裏打ちされた堅実なる前進……俺が不老不死になる日も近い。
 だがそのときである。
 散歩から帰ってきたレイが話しかけてきた。
「何が『堅実なる前進』よ。滝本たきもとさんのどこに堅実さがあるっていうのよ」
 レイはお菓子の詰まったコンビニ袋をソファに放り投げるとそう言った。
「なんだお前、なんで俺の考えを知ってるんだ。そうか、今流行はやりの思考盗聴ってやつか。ちょっとアルミホイル買ってきてくれ」
「ふざけないで。私は滝本さんの脳内彼女なんだから、滝本さんの浅薄な考えぐらい、その気になったら読めるに決まってるでしょ」
「それもそうだな。ははは」
「はははじゃないわ。滝本さんを見てると不安なのよ。本当にそんなに適当に生きてていいの? 滝本さんが変なこと考えながら日がな一日、家でスマホをいじってる間に、近くの工場では朝から晩まで労働者の皆さんが働いているのよ、額に汗して!」
 労働者という単語に刺激を受けた俺はベッドから立ち上がると胸に手を当てて滔々とうとうと訴えた。
「はっ、俺だってちょっと金が無くなれば行くに決まっている、このアパートから自転車で十分、川崎の誇る工業地帯、煙突からもくもくと煙を吐き出すリアルなミッドガルに出稼ぎにな! なぜなら俺は駅前のテイケイワークスに登録してる派遣労働者、ベルトコンベアに段ボール載せる仕事で日銭を稼ぐ、それが俺のリアルライフ」
「な、なんでちょっとラップっぽくなってるのよ」
「前に工場で東南アジア出身の若者と仲良くなったのを思い出してな。俺に高所作業用の安全ベルトの付け方を教えてくれた彼は、夜の駅前でよくラップの集会をしているらしい。いつか俺も交じりたいところだぜ」
 そんなリアル感のある労働経験について語るとレイは目を伏せて大人しくなった。
 どうやら俺のことを昔のような働かない穀潰ごくつぶしだと思っていたようだが、男子三日会わざれば刮目かつもくして見よである。四十を超えて大人になった俺は川崎の工場でだって働けるのだ。
「そうだったのね……滝本さんなりに必死に生きてるのね。ただ私が言いたいのは、不老不死なんて目標は、もう忘れた方がいいんじゃないかってこと」
「なんでだよ。不老不死にならなきゃ意味ないだろ。目標があるから人生、やる気が出てくるんだ」
「だって……人間はほら、限りある生命だから輝くのよ」
「出た! これだよ。これだからつまんねえんだよ、一般人は。やれやれ、見下げ果てたぜ」
 俺はため息をついた。
 一般人は自分の頭で物事を一度も考えたことがない。そのため今のレイが吐いたような常套句じょうとうくを口走りがちだ。だがそれはパターン認識によってAIが吐き出す戯言ざれごとと同様のものであり、一片の真実も含んでいない。
「仕方ない、面倒だが俺が真実を教えてやろう。いいか? 限りある生命というのは、電球の輝きにたとえることができる。わかるか?」
「え、ええ……」
「一個の電球の寿命が十倍になったとしたら、その電球が放射する光量の総量もまた十倍になることは明らかだ。つまり人間も寿命を延ばせば延ばすほど輝きが増えるということだ。Q.E.D.」
「私が言いたいのはそういうことじゃなくて……ほら、よくアニメとかで吸血鬼が出てくるでしょ。吸血鬼は長生きするほどに人格が破綻はたんしがちでしょ」
「ああ……『吸血鬼長生き問題』か。それは確かに不老不死を目指すときに避けて通れない問題ではある」
「ね。もし滝本さんが不老不死になったら、すごく孤独になって人格が破綻しちゃうのよ! 誰も知ってる人がいない未来の世界を滝本さんは一人孤独にさまようのよ。そんなのかわいそうよ」
「心配ない。レイ、お前がいるじゃないか」
 レイは顔を赤らめて目をそらした。
「ば、バカ。何を言うのよ。私だっていつまでも滝本さんの面倒を見てる暇なんてないんだからね。私も忙しいんだから」
「じゃあ別にいいよ。『吸血鬼長生き問題』への対処法は俺も前々から考えてるからな」
 レイは一瞬、歯を食いしばり拳を握りしめたが、目を閉じて三回、深呼吸をした。
 やがてアンガーマネジメントに成功したらしいレイは目を開けると言った。
「ふ、ふん……別にいいわよ。滝本さんがまともな人の心を持ってないのはわかってるから。それよりも、そもそもなんなのよ、その『吸血鬼長生き問題』って」
 俺はアパートの壁の飾り棚を指差した。
 セリアで買ってきたパーツによって造られたその飾り棚には、三枚のレコードと一枚のCDが飾られている。
「俺と『吸血鬼長生き問題』の関わりは深い。そうだな……せっかくの機会だ。このCDを再生しつつゆっくりと語ってやろう。聴くがいい、俺の青春の成年向けアドベンチャーゲーム『吸血殲鬼ヴェドゴニア』、そのオリジナルサウンドトラックを」
 CDを手に取った俺はジャケットをレイに向けた。
 そこではメタリックな拘束具で顔を覆った半吸血鬼のヴェドゴニアが、紅の甲冑かっちゅうまといし伝説の吸血鬼ギーラッハに必殺の一撃を加えていた。
 このCDジャケットを見るたびに、俺はこのゲームをプレイした熱い青春時代を思い出す。
 学校にも行かずテレホタイムに何かしらの圧縮データをダウンロードしながら成年向けゲームに明け暮れたあの日々。
『ONE 〜輝く季節へ〜』や『加奈 〜いもうと〜』といった生と死の問題に鋭く切り込む名作成年向けゲームのプレイによって、俺の死生観は激しく揺さぶられた。
 同じ頃に『吸血殲鬼ヴェドゴニア』をプレイした俺は、永遠の生に想いをせたものだった。
「…………」
 やがてパソコンデスクのスピーカーからヴェドゴニアのエンディングテーマ、小野正利おのまさとしが歌う『MOON TEARS』が流れ出した。
 俺は椅子に座り目を閉じてしみじみとその歌に耳を傾けながら、レイに『吸血鬼長生き問題』とその対処法について語った。

 簡単に言えば『吸血鬼長生き問題』とは、長生きしすぎた人間が直面する数々の問題を総称したもののことである。
 吸血鬼となった者、あるいは何らかの手段によって不死性を獲得した者は、死すべき運命に縛られた定命の者が寿命でバタバタ死んでいくのを見送る立場にある。
 親しい人が死んでいくのを見送る。これは非常に悲しいことである。
 俺が大学生の頃にプレイし、以来、俺のオールタイムベスト吸血鬼ゲームに選ばれているヴェドゴニアの物語においても、永遠を生きる吸血鬼となることを選んだ主人公は、かつての恋人、白柳弥沙子が老衰の果てに人間として大往生していくのを見送ることになる。
 そのときに流れる『MOON TEARS』というエンディングテーマを初めて聴いたとき、俺は流れる涙を押し止めることができなかった。
 そう……優しい眼差まなざしを持つあの彼女までもが定命の運命を受け入れて往生していく。
 彼女への想いよ、この胸にいつまでも留まってくれ。そう願うも、冬の夜、皓々こうこうと輝く月の光を浴びて、長生きしすぎた吸血鬼の俺の記憶は刻一刻と剥がれ落ちていくのだ。
「ううう……なにこれ、すごく悲しい歌」
 見るとレイはソファから身を乗り出して歌声に耳を傾けつつ、目元を拭っていた。
 千年という長い時間を孤独に生きていく吸血鬼の悲哀がレイにも伝わったのだ。
 と、ふいにソファから立ち上がったレイはもう一度涙を拭うと、ずずっと近づいてきて俺の肩をガクガクと揺さぶった。
「ダメよ滝本さん! もし仮に本当に不老不死になれたとしても、こんな悲しい孤独な人生を送るぐらいなら、皆と一緒に早めにあの世に行った方がよっぽどいいわよ!」
「ふん、まあそれは確かに一理ある考え方ではある。だが長年この『吸血鬼長生き問題』と格闘してきた俺は、すでにこの問題を乗り越えているんだ」
「ど、どうやってこの悲しみを乗り越えるというの?」
「まず第一に必要なのは『気合』だ」
「気合ですって?」
「ああ。悲しみというものは気合によって乗り越えられる。吸血鬼というものはウェットでメソメソしがちだからな。そういう奴にこそ気合が必要なんだ」
「…………」
 気合という非科学的、薩摩隼人さつまはやと的な回答に対し、レイは心底うんざりしたという表情を見せた。しかしまず最初に、悲しみを切り裂く裂帛れっぱくの気合がなければ、どうやって千年の長き時を生きていけようか。
 それがどれだけ親しい者の死であっても、他人の死は他人の死である。しばらく喪に服したらさっと手放して忘れ、あとは定期的に墓参りしておけばそれでいい。そして時々に湧いてくる強い悲しみは、気合でなんとか乗り越えるのだ。
 そのように説明するとレイはしぶしぶといった様子であったが同意した。
「ま、まあいいでしょう。大人になるとアンガーマネジメントが大事なように、別離の悲しみに対するマネジメントも必要なのかもしれないわね」
「ああ、その手法の一つが気合だ。だがもちろん気合だけでやっていけるほど世の中甘くない。だから『吸血鬼長生き問題』には『気合』以外にも多角的な対処が必要になる。そのうちの一つが『更新』だ」
「更新? 何を更新するっていうの? 免許?」
「いや、長生きしすぎると関係者各位が死んでいく。その穴を新たな関係者で埋めるんだよ」
「つまり新しい人間関係を作るってこと?」
「簡単に言えばそういうことだ。ヴェドゴニアにおいて主人公は昔のガールフレンドが往生していくのを見送った。彼はその後、夜の暗く長い道を孤独を抱えながら歩いていったが、本来であればそこで人間関係を更新すべきだったのだ」
「…………」
「服と一緒だ。古いものを処分したら新しいものをクローゼットに補給、更新すべきなんだ。俺たちは常に生活の全領域を、一日ごとに更新していかなきゃいけないんだ」
「最低……ひとつひとつかけがえのない人間関係をそんなふうに言うなんて」
 レイは心底、見下げ果てたという目を俺に向けた。
「はっ、なんとでも言え。実際問題、人間関係の新陳代謝はどうしたって必要なんだ。俺は高校に入学する際、地元を離れた。そのとき友人は入れ替わった。大学に入学したときも同様だ」
「そんな冷たい滝本さんなんかと、新しく友達になってくれる人なんて誰もいないわよ!」
「まあ正直、新しい人間関係を作るということに関して俺にはなんの自信もない。それは確かだ。だが努力目標として、『新たな人間関係に自らを常に開いておく』ことは心に留めておきたいものだな」
「そういうことなら……まあわからないでもないわ。古い人間関係の中にだけ閉じこもるのはよくないわね」
「ああ。しかもこれは人間関係に限ったことじゃない。人間、長く生きていくと、身の回りにある形あるものは何もかも古くなってその価値を失っていく。それは趣味に関しても同様なんだ。だから常に新しい趣味を更新していかなきゃならない。こんなふうにな」
 俺はiPhoneをレイに見せた。そこには音楽制作用アプリが燦然さんぜんと輝いている。
「たとえ吸血鬼になったとしても、こうやって趣味を絶えず更新していけば、心はいつまでもフレッシュなままに保てる」
「ふうん」
「趣味だけじゃない。流行ってる歌、漫画、映画、本、常に新しいものを補給し続けるんだ。そうしてこそ千年、みずみずしいフレッシュな気持ちで生きていける。たまには演歌を聴いてもいい。だが若者の間で流行ってる歌も聴いた方がいい」
「そう言う割には滝本さん、最近ぜんぜん新しい本を読んでないでしょ。たまに私とカラオケに行っても古いアニソンばかり歌ってるし。本当はもう心が老化しちゃってるんじゃないの?」
「う、うるさいな、新しい本はこれから読もうとしてたところなんだ! それに……」
「それに?」
「本当はな、俺ぐらいの超人になると、実はそんなに新しいものを補給しなくても大丈夫なんだ」
「どうしてよ。新しいものを補給して生活を更新しないと心が乾いてしまうんでしょ」
「こうやって目を閉じるだろ」
 俺はレイの目の前で目を閉じ、心の中に意識を向けた。
「こうすると、目に見える形を離れた、抽象的な世界を感じることができる」
「ふうん」
「人は体を持って生まれてくるが、形が失われたとしても、その本質はこの目に見えない抽象的な世界に存在を続けているんだよ。誰もが皆、ずっとな」
「…………」
「だから本当は別に新しい形を追い求めなくてもいいんだ。古い形が去るのを悲しむこともないんだ。何もかもずっと、目に見えない世界の中に存在を続けているんだから」
 俺は数秒、あるいは永遠、この存在の本質の中に自らの意識を投げ入れ、そこでくつろいだ。
 かつて俺が銀河コアの内部で見い出したこの永遠の世界で。
 そしてかつて株式会社ネクストンのブランドTacticsから『心に届くADV第2弾』として発売された18禁恋愛アドベンチャーゲーム『ONE 〜輝く季節へ〜』の中で、『えいえんはあるよ、ここにあるよ』と繰り返し語られたこの永遠の世界の中で。
 俺は心の動きを止め、すべての形態を一時的に脱ぎ捨て、深遠なる静寂の中でくつろいだ。
 そして俺は気づいた。すでに俺は永遠を生きているのだ。今までも、これからも、永遠に。

 いつの間にかパソコンデスクに突っ伏してうたた寝していたらしい。目を開けるとすでに日は落ち、ワンルームは蛍光灯で照らされていた。
 レイはというとソファに座り、何やら金属の棒と毛糸を指先で操作している。
「おい、何してるんだ?」
「いつまでも滝本さんが目を開けなくて暇だったから、近くのセリアで買ってきたのよ。毛糸と編み針」
「編み物……か?」
「ええ。まずはカップを置くコースターを作ってみるつもり。べ、別に『新しい趣味を作れ』っていう滝本さんの話に触発されたわけじゃないんだからね!」
 どうやら俺の話に触発されたらしい。
 人に良い影響を与えることができたうれしさを覚えつつも、一方で俺はというと、方向感覚を見失い、何をすればいいのか途方に暮れていた。
 パソコンデスク前の椅子に腰を下ろしたまま考え込む。
「…………」
 ここ数日、確かに俺は音楽なるものに対し、新しい情熱を感じていた。
 だがそれがどこにつながっているのかわからない。
 だいたいヴェーダンタ哲学によれば、この世は仮初めの幻のようなものである。
 俺がこの世でもっとも感動したゲームの一つ『ONE 〜輝く季節へ〜』の中でも、主人公たちが生きている日常世界より、むしろあの謎めいた目に見えない『永遠の世界』の方にこそ実質がある。
 同様にこの俺が生きている三次元空間もまた一種のヴァーチャル空間のようなものであって、そんな一時的な場所で本気を出しても仕方ない。
 別に俺らの存在は本質的に無限なんだから、なるように任せて、肉体は死ぬに任せようぜ。そんな気持ちが自然に湧いてくる。
『吸血殲鬼ヴェドゴニア』のヒロイン、巨大なスレッジハンマーを振り回して戦うヴァンパイアハンターのモーラも言っている。『灰は灰に、ちりは塵に』と。
 そう……この三次元空間は、より高次元の『永遠の世界』に浮かぶ一瞬の灰でしかない。そこに生まれたこの肉体は塵同様のものである。そんなものの永続性を求めたところでなんの意味もない。
 永遠性はすでに担保されているのだ。我々の意識と『永遠の世界』は一つであるという事実によって。
 そのことに安らぎ、肉体の老いと死ぐらいは大人しく受け入れるべきではないのか?
「…………」
 だがここで俺は、五石散を飲んで副作用に苦しみながらも不老不死を目指した中国東晋とうしんの書家、王羲之おうぎしの代表作である『蘭亭序らんていじょ』を思い出した。
 今から1670年前のこと。
 時は西暦353年、すなわち永和9年の3月3日。
 郡の長官を務めていた王羲之は名士や一族、年配者から若者まで集めて『曲水の宴』なる季節のみそぎと宴会を兼ねた催しを開いた。
 場所は中国浙江せっこう省中央部の名山、会稽かいけい山の麓にあるあずま屋、蘭亭だ。
 参加者は蘭亭で酒を酌み交わしながら二十七編の詩を詠じた。その序文として王羲之が揮毫きごうしたものが蘭亭序である。
 そこではまず自然の美しさが述べられる。
 神秘的な山と竹林、そして川。
 その川に主催者側のスタッフによって酒盃しゅはいが流されていく。参加者は川べりに並んで座り、詩を詠じては川面を流れてくる酒盃を手に取る。これが曲水の宴である。
 晴れ渡る空の下、のびやかな春風が吹く。
 空を仰げば宇宙の大きさを観ることができ、視線を下げれば地にあふれる生命を知ることができる。
 とても楽しい。
 王羲之は、人と語り合うことや、自由気ままに生きることや、人生にふいに訪れる楽しい瞬間について述べる。その瞬間の中で人は老いを忘れることができる。
 だがその楽しさの頂点を過ぎたところから、蘭亭序の記述は少しずつインナーワールドへと移行していく。
 昔あれほど楽しんでいたことが、やがて色せていくことが語られる。
 気持ちも物事も移り変わっていき、いつか終わりが来ることが語られる。
 そしてついに老いと死の問題がはっきりと語られる。
 美しい自然と仲間に囲まれ、生に満ち溢れた曲水の宴の最中にあって、王羲之はこの生が失われていくことを思う。
 死ぬこと。
 それはとてつもなく大きなことであり、それが痛ましいことではないなどとなぜ言えるのか?
 不老不死のために道教を学び、老荘思想にも通じている王羲之はとうとう内心の思いを吐露する。
 生と死は一つのものだという老荘思想はでたらめだ。
 長生きすることと短命であることが同等であるという考え方は間違っている。
 そう王羲之は断言する。
 それは生は死よりも良いものだという考えである。それは長生きする方が短命であることよりも明らかに良いという考えである。
 それははかなく死んでいくものを見るのは悲しいという気持ちである。
 つまりそれは死にたくないという想いである。
 それは皆と一緒に、いつまでも生きていたいという願いである。
 そうだ。
 人はこの願いをなくしてはいけない。
 まあ、この俺だけは、そう簡単には死なないだろう。
 俺は古今東西のさまざまな寿命延長の秘技を知っている。また『超人』であるがゆえに、自らが望む現実を創り出すことができる。
 だからこの俺だけはいつまでも死なない。
 だが身の回りの人はどうか?
 詳しくはわからないが、おそらく俺の周りの人は超人ではない者が多いと思われる。
 そうすると、多くの人は社会常識的な範囲の寿命でこの世から離れていくことになると思われる。
 それを見送り続けるのは実際、きつい。
 実は俺は映画ではよく泣くタイプだ。
 ちょっと悲しい場面が流れると五秒で泣いてしまう。そんな俺が、この先訪れる関係者各位の死亡ラッシュに耐えられるだろうか?
 耐えられるわけがない。
 だとしたら……俺以外の人間も長寿化せねばならない。
 そうだ。
 万人の完全なる不老不死化……俺はこれを目標にせねばならない。
 この自分だけが不老不死となってもなんの意味もないのだ。
 誰もが超人になり、そして誰もが不老不死となる世界を作る、そのように俺の目標を更新せねばならない。
 だが……誰もが永遠に生きられる世界を作ることが究極目標だとして、しかし永遠はあまりに抽象的すぎる。
 だからとりあえずの目標を千年としよう。そしてこの決心を忘れないよう文書に記録しておこう。
 俺はiPhoneのメモを開くと取り急ぎ『俺の未来年表』を加筆修正した。

  • 3000年
    プレステ200が発売される。
    俺は昔からの関係者各位とプレステ200で遊ぶ。

 だが……具体的にどうやってこの夢を現実化すればいいのか? いかにして世界人類を超人化し、その寿命を延伸すればいいのか?
「…………」
 俺は瞑目めいもくし沈思黙考したが何もいいアイデアは思い浮かばなかった。
 考え疲れた俺はベッドに横になってまたスマホの音楽アプリを何気なくいじりはじめた。
 そのときだった。
 俺に一つの真に偉大なアイデアが落雷のごとく降り注いだ。
「そうだ……音楽だ。『音楽の力』を使えば皆の寿命を延ばすことができるじゃないか!」
 俺の脳内で、音楽、超人、そして万人の不老不死化というキーワードが音を立てて繋がっていく。
 自分が今、何をなすべきかを悟った俺は、急ぎ行動を起こすべくベッドから跳ね起きた。
 だが同時にレイがソファから立ち上がった。
 彼女は一辺十センチの正方形の編み物を俺に突きつけてきた。
「どう?」
「えっ。これは……」
 編み目の大きさがバラバラな、みすぼらしい編み物の小片だ。
「毛糸のコースター、よかったら使ってみてね」
「あ、ああ」
「これも書いたから読んでね!」
 レイが俺に突きつけてきたノートパソコン、そのエディタには以下の文章が表示されていた。

レイちゃんの知恵袋 その3
『お手本にならって形あるものを作ってみる』 できました!

 私の初めての作品、毛糸のコースター。
 まだまだ荒削りなところはあるけれど、初めてにしてはうまくいったと思います。こう見えても私、手先は器用な方なんです。
 明日またセリアに行って、新しい作品作りのための毛糸を買ってこようと思います。次は『アクリルたわし』ってのを作ってみたいですね。アクリルたわしなら洗剤を使わず水だけでお皿を綺麗きれいに洗えるそうです。
 滝本さんは台所に洗い物をめがちなので、こういう一手間が楽になるアイテムをあげると喜びそうです。ふふ。
 はあ、それにしてもこうやって何か形あるものを作るのは充実感がありますね。
 滝本さんもずっとパソコンやスマホをポチポチしてないで、たまには手を動かしてみるといいと思います。
 デジタルの世界というのは便利な反面、恐ろしいところもある世界なんですよ。
 デジタル世界にばかり没頭していたら、デジタル人間になっちゃいますよ。
 怖いですね。
 だからたまにはこうやって、編み物のようなお手本のある手仕事をやって心のバランスを取りましょう。
 形あるものを手で作ると脳に良い影響があるんです。
 また、お手本を元に作業することで、心が休まります。
 現代は独創性が重視される一億総クリエイター時代で、皆が何か新しい誰も見たことのないものを作ろうとしています。
 小説を書いてる滝本さんなんかもそうらしいですね。
『掘り進むべき方角がこれで正しいのかさえわからない長いトンネル……そんなものを何十年も一人で掘り続けるのが俺の仕事さ』なんて滝本さんが眉間みけんにシワを寄せて語るのを聞いたことがあります。
 それはただカッコつけて言ってるだけで、本当はそんなにつらい仕事ではないと思います。
 でも答えのない場所に答えを見つけようとする作業が、人の心に終わりのないストレスをもたらすことも本当でしょう。
 ですから、そういうストレスを抱えている人は、たまには『これが正解』という答えがある作業をしてみてください。
 ほんの少しの時間を取って、編み物、習字、図画工作……上手なお手本を参考に、何かを作ってみてください。
 ほっと心が休まりますよ!

(つづく)

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連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新

滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt

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